RAINING





 雨は嫌いだ。
 思い出したくもない昔の記憶には、何故か雨がちらつくから。




 背後で、激しい雨が地を叩いていた。
 目前には、ガラスの張られた木の扉が立ち塞がっている。見慣れたHONKY TONKの入り口だ。11月の雨は、体の芯から凍えるほどに冷たいというのに、のろのろと手を伸ばして取っ手に触れても、金属のそれから冷たさは感じない。掴んだ自分の手自体が凍えきっている。ただでさえ色白の肌は、白を通り越して透き通るくらいに青白くなっていた。
 扉の内側はひどく明るい。店主とバイトが談笑する声が、耳の遥か遠くから響いて来る。その眩さは、自分が立っている夜の闇が、尚更深く感じられるほどで。
 一度握った取っ手から、手を引いた。
 傘は差しているけれど、雨の勢いは激しかった。傘を持つ左手も、まるで氷の彫像のようで。ぬばたまの黒髪は雨を吸い、白い頬に張り付いている。色の薄い唇をきつく噛んだら、黒髪の合間の蒼い瞳に、わずかに光が戻る。
 嘆息と共にもう一度取っ手を握ると、今度は躊躇わずに、一気に扉を押し開けた。



「よう、邪魔するぜ」
「いらっしゃいませー、って…蛮さん? どうかしたんですか?」
 HONKY TONKに一歩入るなり、気遣わしげな声が蛮を出迎えた。思いもよらない歓迎に、つと足が止まる。
 真鍮の鐘がからからと鳴る扉の向こう側、往来では激しい雨音が地面を叩いている。
「蛮さん?」
 半分開いた扉はそのままに立ち尽くす蛮に、作業の手を止め、夏実が首を傾げた。
「どこか…」
「入るんだったらドア閉めてくれ。雨が入っちまう」
 夏実の言葉の上から、波児が明るく言った。カウンターの中でグラスを拭いている彼の表情はサングラスの下で、いつもと変わらず定かではない。口だけは笑みの形になっているけれど、そのサングラスの下は果たして。
「あ、…ああ、悪ィな」
 濡れた傘を一振りして、傘立てに突っ込む。後ろ手に扉を閉めてカウンターに腰を下ろすと、目の前にコーヒーが出された。熱い湯気を立てるそれに、思わず蒼い瞳が細くなった。
「今日はヤケに親切じゃねぇか。何も言わずにコーヒーが出て来るなんざ」
「気にすんな、ツケだからよ」
「…あっそ」
 憮然とコーヒーを含む蛮を見下ろし、波児は小さく笑った。
「冗談だ。今日はオゴリだ。と言っても、あまりモンのブレンドだがな。…なんつっても、今日はもう店仕舞いだ」
 三人揃って、窓の外を眺める。土砂降りの雨が地面を激しく叩いて、通りは白い靄に包まれているみたいに何にも見えない。波児が口を開く前に、夏実が外の看板を片付けに行った。ここに住み込んでバイトをするようになって2年。彼女もすっかり、波児との共同生活に馴染んでいる。
 蛮の濡れた黒髪から、雨の雫が滴る。それを見咎めて、波児がタオルを投げてくれた。店を濡らされちゃ困る、と口では言っているが、彼の面倒見の良さはよく知っている。有り難く、タオルで髪を拭いた。看板を片付けて店内に戻った夏実は、僅かの間に濡れてしまった肩から水滴を払い落として、大きな瞳を瞬きさせた。
「何だか、たらいを引っ繰り返したみたいですね。さっきまでは霧雨だったのに」
「この時期、こんな雨も珍しいな」
 今日から十一月。霧と間違うような時雨ならわかるが、誰も予想していなかった土砂降りだった。
「そういえば、蛮さん。銀ちゃんはどうしたんですか?」
 ふと、窓から視線を外し、夏実が蛮に尋ねた。あくまで無邪気な笑顔を、満面に浮かべて。
「あ…? ああ、銀次ね」
 ぼんやりと窓に叩きつけられる雨に見入っていた蛮は、突然話を変えられて一瞬戸惑った。
 しかも、その考え事の100%が、その名の人物だったとあっては、さしもの蛮の心臓も飛び上がる位に驚いた。だが、勿論素直に驚いた顔など見せる訳もない。
 平然と、答える。
「今日は無限城にお泊りだとよ」
「無限城に?」
「いいのか、あいつを無限城に置いて来て」
 口々に心配そうな声を上げる二人に、蛮はぞんざいに片手を振った。
「…今日はパソコン小僧の誕生日なんだと」
 二人と視線を合わせず、蛮は懐からマルボロの包みを引っ張り出した。
「今夜は泊まっていってくれって言われて、すんげぇ困った顔してな。どうしよう〜、って俺のこと見やがるから、残れって言って置いてきたんだよ」
 偶にはいいだろ。
 そう、口の先で呟いて、煙草を一本咥える。
「なんだ、そうだったんですかぁ」
 明らかにほっとして、夏実は胸を撫で下ろした。
「てっきり、銀ちゃんと喧嘩したのかと思っちゃいました。お店に入って来た時の蛮さん、何だか怖い顔してたし…」
 夏実の明るい声に反して、言葉はぐさりと何かに刺さった気がした。


 蛮はむっつりと言葉を飲み込み、波児は我関せずとばかりに薬缶を火にかける。
「…」
「…」
 激しい雨の音をBGMに、夏実の声だけ大きく響く。
 返事は、ない。蛮はゆっくりと煙草に火をつけた。邪馬人の形見のZIPPOは、蓋を閉じると、ぱちんと気持ちの良い音がした。
「そーだ、夏実ちゃん」
 無言の蛮をちらりと見、波児は溜め息混じりで夏実を振り返った。
「今日は、こいつも飯食ってくから。用意頼むわ」
「あっ、はい!蛮さん、何食べたいですか?」
 波児の言葉にぱあっと顔を輝かせ、夏実はぱちんと両の掌を合わせた。
「…何でもいーわ」
「ホントに何でもいいんですか?後で文句言っても遅いですからね」
 わかっているのかいないのか。蛮に向ける、夏実の口調はいつもと変わらない。くすくすと笑いながらエプロンをはずし、波児と冷蔵庫の中身について話している。しかも、答える波児の方もいつもと全然変わらなくて。
 ぶすっと紫煙をくゆらせる自分が、一人だけ心穏やかでないのが馬鹿馬鹿しく思えて来る。



 そんな夏実の明るい顔にすら、脳裏で別の顔がダブって。
(重症すぎる…)
 自分で自覚すればする程、尚更肩が落ちた。



 波児と話が纏まったらしく、夏実はポニーテールをくるりと翻して、零れるように笑った。
「それじゃ、今日は簡単に、豚肉の炒め物とサラダにしますね!蛮さん、楽しみにしてて下さいね」
 プチ台風の目のような夏実が店の奥に引っ込むと、店内はたちまち静まり返る。
 静謐な店内で、耳に入るのはほんの微かな音ばかり。
 風が窓を揺らす、カタカタと言う音。柱時計の規則正しい針の音。こぽこぽと、お湯が沸く優しい音。様々な微かな音で、耳の中がいっぱいになる。
 ヤニで磨き込まれた店内が、湿気を含んでぼうんと蛮を包んでいる気がした。
 そういやぁ、銀次と初めてここに並んで、波児のコーヒーを飲んだ日も、こんな最低の天気だったっけな。
 口の端に煙草を咥えたまま頬杖をついて、そんなことを考える。細い煙が、ゆるゆると天井に吸い込まれていった。



 お互い、気分はどん底で。
 相手の顔なんて見たくもなくて。



 それでも、ここに座ってた。



 一つ離れた席で、波児の淹れた苦いコーヒー飲んで。
 この店の、微かな音と包み込んで来るような雰囲気を、一緒に味わっていた。



 蛮の思考を読むように、波児がおもろに口を開いた。
「懐かしいなぁ」
「…」
「こんな天気の日だったよな。お前らがこの店に初めて来たの」
 カウンター内の丸椅子を引き寄せ、波児はよっこらせと腰掛けた。
「最初に来たのは銀次だったな。あんまり泣きそうな顔してるモンで、ついついコーヒーを出しちまった」
 雨に濡れ、ずたぼろでやってきた銀次。蛮に敗れて、今まで心の奥底に抱き続けて来た疑問を、苦悩を引きずり出され、途方に暮れていた冷たい横顔が瞼に浮かぶ。
「俺が雷帝を見たのは、あれが最初で最後だが。無限城の帝王が、まさかあんな、今にも泣き出しそうなクソガキだとは思わなかったよ」



 ―――あいつ、死ぬのが怖くないのかな。
 無限城の悪魔。恐怖の雷帝。どんなことにも感情を揺らさない、冷酷な帝王。
 そんな噂を散々聞いていたのに、実際目の前に立った少年は、今にも砕け散りそうな目をしていた。
 冷酷な仮面の隙間から垣間見えるのは、雨に濡れた涙。捨てられた子猫のような、大切なものを捨てて来てしまったような、欠けた光。




 そうだ。
 だから俺は、テメェを忘れなかったんだ。
 テメェが、あんな瞳をしていやがったから。
 虫唾が走って、心底憎らしくなるぐらい、俺と同じ瞳をしていやがったから。



「…俺も、信じなかったぜ?あんなガキが、噂の雷帝だなんてな」
「一週間も経たないうちに、並んでそこのカウンターに座ってやがった癖してよ。よく言うぜ」
 半分本音、半分誤魔化しでそう言っても、波児がまともに取ってくれる訳もなく。思えば、一番最悪だった頃の二人を知っているのは、波児と二代目だけなのだと、今更ながらに思い出した。
「まさかあいつと組んで仕事をする日が来るなんて、想像の範疇に入るワケがねぇ」
 薄い唇から、細く紫煙を吐き出して、蛮は苦々しげに笑った。長い指の間の煙草は、既に半分以上が灰になっている。
「そうかい。…で、そろそろ吐いたらどうだ?」
「何をだよ」
「胸の内」
「何にもねぇよ」
「嘘言っても無駄だぞ」
「嘘じゃねぇ」
「本当は言いたいくせに、素直じゃねぇなぁ」
「しつこいぞ」
「ほーう。それじゃあ、そのしかめっ面は何だ?オマエは何にもない時でも、眉間に毛虫みたいな皺寄せてんのか?」
「なんだと…!」
 机を思いっきり殴りつけて、波児を睨みつける。血さえも凍りそうな蒼い瞳に直視されてもなお、薄笑いを浮かべたまま、波児は言葉を止めない。その笑顔に、まんまと乗せられたことに気付く。蛮は、しまった、と口を閉じた。
 だがそれは、勿論後の祭りで。満足そうな波児が、笑顔で蛮の口から吸いかけの煙草を奪い取った。
「コレはお預けだ」
 ほとんどちびた煙草を灰皿に押し付ける。舌打ちして、次の煙草を出そうとした蛮の手元から、その箱も奪い取ってしまう。
「おい、波児」
「知ってっか、蛮。煙草なんて咥えてちゃ、本音は吐けないんだぜ」
 無言で煙草を取り返そうとした蛮の手をするりとかわし、波児はマルボロの箱を自分のエプロンのポケットに突っ込んでしまった。
「本音なんて、吐く必要ない」
 ぎらり、と蒼の瞳が剣呑に輝く。大概の人間が腰を抜かして逃げ惑う不現の瞳も、彼を良く知る波児に効きはしなかった。湿気たっぷりの溜め息が、波児の口を割る。
「…お前らには一見すると欠点なんてない。…だが、そこが問題だな」
「……何だよ、それは」
 苦虫を噛み潰したような表情になった蛮は、すっとコーヒーカップに手を伸ばすが、波児はそれも片付けてしまう。波児はどうあっても、蛮に口を開かせるつもりらしい。一層厳しくなった視線を背中に浴びつつ、泰然とした様子で流しにカップを置く。
「お前らは、互いに互いの背を押しながらも、一本の鎖で繋がってるようなモンだってことさ」
「…意味わからねぇぜ、その喩え」
「それじゃあ、今日は何でここに来た? いつもみたいにスバルの中で寝ればいいじゃねぇか」
「…こんなクソ寒ィ雨の日にスバルん中で寝たら、風邪引いちまうだろうが」
「お前らが風邪引くようなタマか。
 …そうじゃなくて。スバルの中で、一人で寝るなんて出来ないんだろ?」
 穏やかな波児の声が、蛮の心をかき乱す。その声音は、まるで十の子供に向けているようだった。
「はっ、何で俺様が? 銀次がいねぇなら、その分場所が広くてイイに決まってんだろうが」
 返す言葉は、常日頃から冷徹な蛮のものとは思えないくらい、苛立って掠れていた。



 サングラスごしの蛮の瞳が、波児を睨む。視線だけで殺せそうなぐらいの鋭利な刃が波児に向けられるが、彼の目もまた深い紺のガラスの下。口の端だけを歪めて、蛮の視線を受け流す。
「それじゃあ、言い方を変えるか」
「…?」
「銀次のいないスバルの中じゃ、寝られないんだろ?」
「!」
 その瞬間、サングラスの下の蒼の瞳は、最大限に見開かれた。














■さりげなく続きます。
 奪還屋のネタは短く纏まらない…。何故?