キズナソング





 ひどく静かな午後だった。







 凍りつくような空気が、街すらも凍らせてしまったかのように、線路沿いの細い道は、飛ばす車も通る人影も彼らの他にはなかった。
 線路脇のフェンスの下のコンクリートに腰を下ろした蛮は、無言で煙草を吸っていた。火をつけては踏み消し、すぐ次に火をつけては、指が焦げるくらいまで煙をくゆらせて。足下にはすでに、かなりの数の吸い殻が散らばっていた。それでも、彼は煙草を吸うのをやめようとはしない。決して俯かれることのない顔はちゃんと前を向いているけれど、常日頃はぎらぎらと鮮やかな光を宿している蒼い瞳に、その気配は微塵もなかった。下がった眦に力は無くて。ただ、ぼんやりと静かな街の景色が映るだけ。
 よく見ると、彼は全身傷だらけだった。所々裂けた革のジャケットの下の腕や顔などにいくつもの絆創膏が見える。どれも大した傷ではなさそうだが、全部合わせてみるとかなりの傷があるようだった。
 一方の銀次はと言えば、蛮の左側のフェンスの上にちょこんと腰掛けていた。たまに揺らす足がフェンスに当たって、かしゃかしゃ鳴るが、蛮はまったく目もくれない。それでも銀次は飽きずにフェンスを鳴らし続けている。
 フェンスに当たる脚の、ハーフパンツの裾からのぞく腿から膝にかけて、真新しい包帯が巻いてある。加えて、意外に華奢な首や胸にも白い包帯が見えるが、特に、脚の包帯は痛々しかった。焦げ茶色のダッフルコートの下の腕は見えないが、そこにも包帯は巻いてあった。蛮が意外と軽症なのと比べると、彼がいかに大怪我をしているのかわかる。
 凍える空気に白い息を吐き出し、灰色の空を見上げる。今にも降り出しそうな、湿気を含んだ雲が空いっぱいに広がっている。今降り出したら、雪になることは間違いなさそうだった。
 地上に目を戻し、銀次は蛮の頭を見下ろした。腰を下ろした時から、まったく変わらない姿。足を開いて、両肘を膝の上につき、煙草を吸い続ける丸まった背。変わっていくのは、溜まっていく吸い殻だけだ。
 しかし、その横顔に流れているものが目に入った時、銀次は瞠目した。銀次からは、黒髪に隠れて半分しか見えない白い頬に、一筋流れているもの。唖然と口を開いたものの、彼はすぐに顔をくしゃりと歪めた。





 その孤独な背に、今すぐ飛びつけたら。
 どんなに自分は満足するだろう。
 温もりで包んで、安心させてあげられればどんなにいいか、と。





 でもこの相棒は、そのようなものを望まないということを。
 銀次は良く知っていた。




 だから、飛び出したくなる感情をじっと堪えて口を開く。こんな寒空すら溶かしそうな、柔らかい微笑を浮かべて。
 その背を呼んだ。
「蛮ちゃん」
 ぴく、と革のジャケットが身動ぎする。だが、それ以上はいくら待っても無反応で。
 しかし、銀次は反応なんて期待していないのか、相棒の名を呼ぶのを止めようとはしない。
「蛮ちゃん、蛮ちゃん、ばーんちゃん、ばーんちゃーん」
 返事は、ない。冷気と沈黙が、次第に塗り込められるくらいに濃くなっていく。
 ひょっこりと蛮の顔を覗き込み、その表情がまだ固まっているのを見ても、銀次は気にしない。ひょいっとフェンスに両手をつき、両足を揺らしながら空を仰ぐ。そして、重い灰色の空に向けておもむろに口を開いた。
「苦しくたって辛くたって誰にも話せないなら、あなたのその思いを歌にして僕が歌ってあげよう…」
 それが歌だとわかったのは、多分付き合いの長い蛮だから。それほどメロディーに乗っていると言い難い歌が、ゆっくりと紡ぎ出されて降って来る。
 それでも。静寂の中に流れる穏やかな銀次の声と、その歌詞は、蛮に頭を上げさせるには十分だった。
 のろのろと、歌を歌う銀次を見上げる。頭を少し上向けて、左の肩越しにフェンスの上に目をやると、真っ先に銀次の脚が視界に入る。健康的な色をしたそれは、痛々しい包帯に包まれていて。瞬間的に、眉間に皺が刻まれた。
 その眩い白さは、自分の罪の証。





「…どうして笑ってやがる」
 その声は必死に平静を取り繕おうとしているけれど、どう聞いたって無理をしていることはすぐにわかった。
「蛮ちゃんが、辛そうな顔してるから」
 歌を止め、銀次が答える。平生とまったく変わらない声で、当然とばかりに。
「…どういう意味だ」
 返す蛮の声に感情はない。抑揚のない低い声が、重い空気にすっぽりと沈んで行った。
「オレが落ち込んでる時や泣きたい時に、蛮ちゃんは笑っててくれるよね。『いつまでうじうじしてんだ』って叱って、こっそり慰めてくれる。だから、今は蛮ちゃんが辛そうな顔してるから。オレは笑ってるの」
 そう言って、蛮の蒼い目を真っ直ぐ射抜き、銀次は笑う。
「辛い時さ、自分で浮上するのって大変だよね。つい後ろ向きになっちゃうし、もう駄目かもって思っちゃう。オレ、そんな時は皆が居てくれて良かったぁって思うんだ。前は、VOLTSの皆が居てくれたし、今は蛮ちゃんが居てくれる。だから、オレは落ち込む時も目一杯落ち込める訳で…」
 一生懸命、手振り身振りも混ぜて銀次が話す。だが、蛮の様子が全然変わらないことに、序々に焦りが募ってきて。段々と声のトーンが下がる。絆創膏の貼られている額に、脂汗がぷつりと浮かんだ。
「…えと、つまり蛮ちゃんにもそう思ってもらえるといいなぁってことです…」
 あげたい言葉はたくさんあるはずなのに。どうしてうまく伝わらないんだろう。気持ちだけが先走る。しゅんとうなだれた銀次の言葉の最後は、小さく窄んで消えた。
 垂れた耳と尻尾がはっきり見えるような、小犬のようにわかりやすい落ち込み方に、蛮は口の端を微かに歪めた。でも、その笑みはすぐに消えてしまう。
 もう何本目かもわからない煙草を、足下に投げ捨てて、火を踏み消す。視線を正面に戻すと、煙と共に苦い言葉が零れ出た。
「…でも、おまえが怪我したのは、俺のせいだ」
 重々しく吐き捨てる蛮に、銀次は弾かれたように顔を上げた。
「違うよ。オレのせいだよ。オレがもうちょっとうまく立ち回れば…」
「俺のせいだ」
 けれど蛮は、必死に言い募る銀次の言葉を食いつぶすように、語気荒く言い捨てる。
「蛮ちゃん…!」
 次に降って来たのは、半ば苛立ち混じりの声。上の方で銀次が体勢を変え、身を翻す気配がしたけれど、反応など返してやれる訳がなかった。




「俺の代わりにお前が怪我した。そりゃあ俺のせいだろうが」
 こういうのを、「猿も木から落ちる」というのだろう。
 奪還の最中のことだった。金庫に納められていた依頼品を取り出すため、金庫に集中していた蛮は、らしくないことに、背後から寄って来る護り屋に気付かなかったのだ。間一髪、見回りに行っていた銀次が体当たりで蛮を庇わなければ、蛮の方が大怪我をしていただろう。その代わり、一方の銀次は護り屋とのバトルで、全身に浅い傷を浴びた上に、左の太股と胸に一撃、かなり深い傷を受けてしまったのだった。




 羽根のように軽々とした着地音で、銀次がコンクリートに降り立つ。そして、大怪我した足を引きずることもなく、彼は蛮の目の前に立った。たいていの怪我なら、食事をすれば治ってしまう特異体質。
 それでも、感じる痛みに差などないと、蛮は知っている。この笑顔の下に、痛みに耐える銀次がいることを知っている。
 息をするより無意識に、銀次のことならわかるから。この距離のあまりの近さに、どこまでが自分で、どこからが相棒なのだかわからなくなる。
「…蛮ちゃん、優しすぎるよ」





 そりゃあお前だ。





 頭上に降って来る声に、内心で答える。そんな苦しそうな声をしてるくせに、お前はここから離れもしない。
「……」
「オレのことはいつだって助けてくれて、別に恩も売らないのに。オレが蛮ちゃんを助けても、蛮ちゃんのせい、なの?」





 違う。
 恩を売るとか、そんなんじゃなくて。
 ただ、俺が見たくないだけだ。
 腕の中で身動き一つせずにぐったりするお前を。お前の温もりと、呼吸が零れ落ちて行く様を。





「狡いよ。 それは、すごく狡い」




 ああ。
 狡い。それは、俺のエゴ。
 自分の痛みはほとんど感じないのに、お前の痛みだけは感じるから。身を破るほどに、心を千切るほどに、お前が傷ついてることはわかるから。
 自分がどうなろうが、知ったこっちゃない、この俺がだぜ?
 だが、実際のところ、全身に受けた傷より、お前が感じる痛みの方が何万倍も痛くて辛いから。お前の分の傷を引き受けて。その代わりお前が俺の分も笑ってくれりゃあ。
 俺は、生きて行ける。
 それで、生きていることを感じられる。






「…じゃあもし、お前が死んじまってたら。…俺は、誰のせいにすればいい」




 だから、もしもお前が消えてしまうのなら。
 勝手に去るな。勝手に死ぬな。この俺の力不足によって。この俺の手によって消えてくれ。






 まったく、とんでもないエゴイストだ。
 そんなの酷いと叫べよ。
 勝手だって罵れよ。
 でなけりゃ俺は、きっと止まれない。







 だが、きっとお前は…。







 そんな俺を、許すのだろう。











相変わらずの長い話です…(苦笑)