The Polestar





「マズいわ!」
 喉に引っ掛かるような悲鳴を上げ、銀髪のハーフエルフは椅子を蹴立てて飛び上がった。



 平生、大抵のことでは動じず、「鉄仮面」というあだ名さえもらうことのあるリフィル女史である。
 更に驚いたのは周囲だった。
「レディ・リフィル?どうかなさったのですか?」
 瞳を見交わせあった周囲から、気遣わしげに尋ねられても、生憎と彼女の耳には届いていなかったようだった。
 机の上に手をついて、窓の外をじっと見つめたまま、唇をかみ締めて。その手も、肩も、唇も、微かに震えていた。
 もうとっくに年の瀬で、今年もあと数日。大貴族達はすでに今年の仕事に都合をつけて、休みを手にしているのだろうが、彼ら下級貴族には無縁な話だった。むしろ、上が手を抜いた分だけ皺寄せが来る。日が暮れても、定時になっても、黙々と仕事をこなしていたのだが。
 その沈黙を破ったのは、意外にもリフィルだった。
 窓の外はとっぷり日が暮れて、墨をぶちまけたような闇が広がっている。
 いや、闇一色ではない。冬風に舞うのは、ひとひらの。
「…帰ります」
「え?」
「ごめんなさい、帰るわ!」
 窓の外の景色に、どうにも我慢出来なくなって、リフィルは迷わず身を翻した。コート掛けから黒のコートをむしり取り、マフラーを無造作に巻く。手袋は着ける間が惜しかったので、コートのポケットに押し込んだ。
「帰るって…。いきなり?」
 晦日の日に泣きをみないように、今からきつきつのスケジュールでやろうと計画していたではないか。そう目で訴える同僚に、ちらりと謝罪の視線を向けたが、リフィルは構わず鞄に資料を押し込んだ。
「わたしの分は気にしなくても良いわ。明日、きちんと片付けますから」
 そうは言っても、構わないことなど出来ないではないか。実質的にここの室長はリフィルで、彼女中心に仕事が進んでいるのだから。
 必死に引き止める声にも、リフィルはとうとう首を縦に振らなかった。ただ、顔いっぱいに申し訳なさそうな表情を浮かべて、かたくなに席を立った。
「本当にごめんなさい。お詫びはするわ。ただ、今日は帰らなきゃいけないの」
 帰りたい、ではなく、帰らなければいけない、と。忘れな草色の瞳が、真っ直ぐ訴える。低く柔らかな声も落ち着いていて、彼女が冷静そのものだと言うことは間違いないようだった。
「それじゃあ、お先に」
 反対の言葉を上げることも出来なかった同僚達は、リフィルが飛び出した扉をぼんやりと見て、のろのろと顔を見合わせ合った。一体、どうしたと言うのだろうか。まったくもって彼女らしくない。
 一人がちらりと窓の外を眺め、ふと外に舞うものに気付き、小さく呟いた。
「…あ、雪だ」





 精霊研究所を早足で飛び出したリフィルは、足を緩めぬまま大通りの方へ針路を取った。ぴりぴりと身を切るような冷気が全身に吹きつけて来る。だが、冬はまだこれからが本番。メルトキオの年末程度でめげていては始まらない。それでも、吐く息は白く湿って、重かった。
 迂闊だったわ。
 走りながら、リフィルは唇を噛んだ。まさか、こんな季節のメルトキオに雪が降るとは思いもしなかった。いつから降っていたのだろう。道はうっすらと白い化粧を被り初めていた。全身に吹き付けてくるのは、軽い粉雪だ。積もる速度は早そうだったので、随分前から降っていたのではない、と思いたかった。
 こうなるんだったら、最初から研究所に来てもらえば良かった。リフィルは、形の良い眉をひそめて後悔する。何時に仕事が終わるかわからないから、とリフィルは精霊研究所に来てくれるように行ったのだが、ゼロスの方が「少し待ってもいいから」と言い張って、待ち合わせをわざわざ広場にしたのだ。だが、ちょっと考えてみれば、こんな忙しい年末に仕事が早く終わる訳もない。
 彼が、リフィルの前で「それ」を嫌だと言ったのは、あのフラノールの夜の告白だけ。ぽつり、と呟いた言葉だけ。心の底ではどんな思いがあるにせよ、普段は、平気、と言ってのんきに笑う。
 だが、その裏でゼロスがどれだけ重いもの溜めているのか。それはたぶん本人でもわかっていないのではないだろうか。大丈夫だから。もう恐くないから。そう言い聞かせて、本当は一人でひっそりと傷ついている。
 それが、ゼロスの性格だと。自分と良く似た性格だと。リフィルは知っていた。知っているはずだった。
 なのに、こんな天気の中で一人待ちぼうけをさせるなんて、情けない。
 唇をかみ締めたリフィルは、とにかく出来る限りの速度で広場に向かって走り続けた。





 ひらり。
 目の中の世界を雪が舞う。
 手を出してそれを受け止めると、小指の先ほどの結晶が手袋の上に残る。水っぽくもなく、小さくもない。軽やかな粉雪だった。このまま行くと、メルトキオが雪化粧に包まれるのは時間の問題と言えそうだ。
 メルトキオの中央広場の一隅で、細工物の街灯のすぐ横に腰掛け、ゼロスはリフィルがやってくるのを待っていた。
 たまには外食しない?今朝、そう言い出したのはゼロスから。
 残業がありそうだし、また今度いくらでも付き合うから、今日は止めないかと言ったリフィルに、ゼロスは強硬に「今日!」と言い張った。今日でなければ駄目なのだった。表通りから少し路地の奥に入った先に、メルトキオでも美味しいと有名な、とある料理店がある。そこは、いつも予約でいっぱい。3ヵ月先までびっしりと予約が埋まっている。その店に、今夜いきなりキャンセルが出たのだが、その分の席をゼロスはたまたまつてで手にしたのだった。
 まともに予約すれば3ヵ月先である。喜んだゼロスは、うきうきとリフィルを食事に誘った。嬉しそうなその様子を見ては、リフィルも断り切れない。ゼロスがいくらでも待つと言ったお陰もあって、今夜は珍しく外食と相成った。
 そして、時間は今に至る。短い冬の日はすっかり雪雲に覆われて、薄灰色の空気が漂っていた。
 ゼロスの赤毛は、雪に映える。一面の銀世界に、ゆらゆらと浮かび上がる篝火のようだと。あのフラノールの夜、彼女が言った。
 笑える話だ。皮肉気に、ゼロスは思った。一時は、白いものに、赤い色が乗っているだけで恐怖を感じたと言うのに。真っ白なババロアの上にイチゴソースがかかったデザート、白い法衣の上の赤い刺繍、シーツに広がった自分の髪。
 何もかもがフラッシュバックさせる。
 ……足跡一つない新雪の上に飛び散った、母の。
 だが、彼女はそれを綺麗だと言った。いや、踊る炎のように鮮やかなゼロスの髪を褒める女性は星の数ほど居たが、やはり何故か、リフィルに言われるとその意味はまったく違うものとなった。
 彼女は、偽りを口にしない。穏やかな、耳に優しい響きを持つ声で、淡々と大事なことを告げてくれる。そうして、彼女の言葉は、恐怖を解していくのだ。
 コートのポケットに手を突っ込み、広場をぐるりと見渡す。雪にはしゃいだ子供たちが広場を駆け回っている以外は、極めて穏やかな風景だった。もう既に黄昏が過ぎ、闇の帳がメルトキオを包む。だが今は年の暮れ。街灯の明かりに加えて、工芸品と言えるような豪奢なランプがたくさん持ち出され、街をいつも以上の明るさに彩っていた。
 子供たちの親は近くの店で買い物をしていたようだ。しばらくすると、手提げを持った母親がやって来て、子供たちと家路を帰って行った。
 穏やかなもんだな。街も、俺も。
 ゼロスは一人、心の中で呟いて、犬のように赤毛を振り、うっすら積もりかけた雪を振り落とした。
 さてさて、雪はいいんだけどねぇ。
 視線を、待ち人が来るはずの階段の下に移す。
 ハニー、早く来てくれないと、俺様凍死しちまうかも。すっげー寒い。耳とか鼻とか、凍えて取れちまいそう。
 とりあえず、リフィルが来たら真っ先に温もり貰おう。絶対貰おう。ああでも、リフィルも結構体温低いからなぁ。…いきなり頬ずりとかしたら怒るか?怒るよなぁ…。……まぁでも、今回はしょうがないよな。
 などなど、リフィルがやってきた後のことを頭の中で想像しまくっていると、口許がふっと緩んだ。まったくかの人は可愛いったらありゃしない。妄想のお陰で身体が少し暖まる。
 …どっちにしたって、早く来てくれないとどうしようもないんだよな。
 真っ白な息を一つ吐き出し、ゼロスは待ち人が現れるのをおとなしく待ち続けた。





「すみませんっ」
 擦れ違いざまに肩がぶつかった相手に、リフィルは慌ただしく頭を下げた。
 相手が何か言う前に、あっという間にその脇を通り抜けて行く。あまりの早業で、相手は何がなんだかわからなかっただろう。コートの裾をさばいて、リフィルはとにかく駆けに駆けた。頬の横に垂れた銀髪が、正面からの風に流されて、隠れた耳が姿を現わす。息は真っ白、素肌の手は寒さでがちがちだ。だが今は、何より大急ぎで待ち合わせ場所へ向かうこと。それが全て。
 数多くのランタンに照らされたメルトキオの中央広場が、ちらつく雪の向こうに見えて来る。広場には、雪を遮ってくれるような建物などない。とすれば、降りしきる雪の中、ゼロスはじっと彼女を待っているはずだ。
 ああもう、段々イライラして来たわッ!
 どんなに心配しても、気を揉んでも、彼はきっと表面上は平然と笑うに違いない。リフィルがどれだけ心配しているのか、知っているくせに。会って、ゼロスがいつも通りのへらへら笑いをしていたら、絶対一発張り飛ばす。全力で振っている手に、ぎゅっと力を込めた。死ぬほど嫌なものを我慢するような強さは、他のところで発散してしまえば良いというのに。
 雪のうっすらと積もった階段の下に立って、肩で荒く吐いていた息を整える。そそり立つような長い階段。この先の広場に、待ちくたびれた赤毛の神子が、首を長くして待っている。
 大きく息を吸って顔を引き締めると、リフィルは踏み締めばさくさくと鳴る階段に、一歩足を出した。





 一体、どんな様子で待っているのか。恐る恐る広場に姿を現したリフィルは、彼女の気配を感じて振り返るなり、蕩けるような笑顔を浮かべたゼロスに迎えられた。
「リフィルさま、おっそーい!」
「…はい?」
「俺様、マジで凍死するかと思ったぜ〜」
 …物凄く元気そうじゃないの。
 絶対に、平然とした笑顔を覗かせながらも、どこか辛そうだったフラノールの夜のようなゼロスの姿を想像していたリフィルは、驚きと同時に、むくっと怒りが頭をもたげるのを感じた。一方のゼロスは、そんなリフィルの腹の中は知らず、口先で文句を垂れながらも、彼女がようやく来たことへの嬉しさで感情はいっぱいらしい。さくさくと雪を踏んで駆け足で寄ってくると、がばりと抱きついた。
「っ、ちょっとゼロスっ」
「いいじゃん、ちょっとだけ〜。もう寒くって、人肌が恋しいの何の」
 途端に身を強張らせるリフィルにはお構いなく、ゼロスは彼女の肩に顔を埋めた。雪の中を走ってきた彼女のコートは雪にまみれていて、ゼロスの顔には溶けた雪が触れて冷たかったが、もう全然気にしない。今は、朝から数時間ぶりに会えたことの方が嬉しいし。後は、あったかいお店に行って、美味しいディナーにありつけばもう、言うことはない。
 だが、リフィルの方は納得がいかなかった。
 そりゃあ、ゼロスが雪を何とも思っていないのなら、それにこしたことはない。それが辛い記憶なら尚更、痛みが薄れて想い出になってしまえれば素晴らしいことだ。しかし、あのフラノールの夜の時はまだ、ゼロスは雪に傷付いていた。それからまだいくらも経っていない。もっとゆっくり、克服していくものだと思っていたのに。
 なのに、どうしてこの男はこんなに、当たり前のように平然としているのだか。
「…あなた、雪、大丈夫なの?」
 憮然と、呟く。雪が降っているのにびっくりして、仕事を放り出してまで駆けつけたのである。断固として、理由を聞かねば気が済まなかった。
「?もーう、ばっちり」
 ぱち、と蒼い瞳をぐるりと回し、ゼロスはリフィルの鼻先で得意げにVサインをかましてみせた。
「…心配して損したわ」
「あれ、マジで?心配してくれた?」
「…まさか!」
「ですよねぇ…」
 鋭い視線で睨みつけ、苦々しげに吐き捨てたリフィルに、ゼロスは両手を上げてしみじみと言葉を漏らした。
 そんな軽い返事をしつつも、ゼロスは内心笑み崩れていた。やっぱり、彼女はこういう人。当たり前のように周りに気を配って、それを知られるのを嫌がる。素直ではない、可愛い性格。
「…俺様の髪が、死ぬほど目立つぐらいに真っ赤なのは、リフィルに見つけてもらうため」
 ずっと望んでいたもの。彼女がそれを、残さずくれた。
 あの、雪の夜に。真っ白な夜に。
 だからこそ、もう恐くない。
「…だろ?」





『綺麗ね、貴方の髪』
 白い息を吐き出しながら、隣に立ったリフィルが言う。淡々と、でも限りない優しさを込めて。
『篝火みたいだわ。どこに居ても、貴方を見つけられる』
 実は嫌いなんだ、この髪。苦笑混じりで答えると、彼女は心底意外そうな顔になった。
『どうして?』
 どこに居ても見つけられちまうから。
 そっとしておいて。傷に触れないで。僕に構わないで。どれだけ叫んでも、一人になることなど出来なかった。彼の名と目立つ容貌は、地に潜むことを許さなかった。
『…そう。…でも、私は貴方の髪を見つけて、ここまで来たわ』
 俯く顔を、リフィルの白い顔が見上げて覗き込む。勿忘草色の綺麗な目が、じっと、静かな輝きを湛えていた。
『これからも、そうやって見つけて、意地でも隣に居てやります。…でないと、危なっかしくて見てられないわ』
 そう言ったリフィルの横顔に、細かな雪が舞い散っていた。





 ずっと踏み出せずにいた一歩。
 あの夜に、ようやく踏み出せた。道の先にあるものが見えた気がした。
 だから、もう恐くない。頬を打つ雪は後悔と痛みの傷ではなく、君の決意と覚悟の証。
「…そうよ。だから私には、貴方が落ち込んでいたら慰める義務があるわ」
「義務だなんて冷たーい。せめて愛情って言って」
「せめて、も何もないじゃない」
 ふい、っと顔を背けて、リフィルは小さく笑った。
「…まあ、貴方が本当に大丈夫なら、私には言うことないですけど」
 まだ、心の底ではゼロスの言葉を信用せず、無理をしているんじゃないかと心配してくれているのは一目瞭然だった。そのリフィルの腕を取り、ゼロスはぐいっと彼女を引き寄せる。
「だーいじょうぶ。偶には、信じてくれよ〜」
 軽薄とも言えるくらいの明るい声で、ゼロスは朗らかに言う。リフィルが来たからには、こんな寒いところに用はない。一刻も早く、店に向かうが一番だ。腕を掴んだまま、すたすたと歩き始める。
 まだどことなく不機嫌そうな顔をしていたリフィルは、黙って引っ張られるままにしてやっていた。何だか自分ひとりで空回っていたようで、とっても面白くない。とても面白くはないが、ゼロスがそれでいいのなら、まあいいか、とも思った。
 これって、甘いって言うのかしら。
「信じてあげてもいいけれど、その代わり、貴方も一人で溜め込まないことね?」
 引っ張られていた手をやんわりと振り解いて隣に並ぶと、リフィルは澄まして背を伸ばした。肩までの銀髪が、小さく跳ねる。見上げてくる勿忘草に浮かぶのは、あの日と同じ、静かな輝きと優しさ。
 ゼロスの頬に、にやりと笑みが広がる。
 炎のような赤毛を揺らし、彼はおどけて笑った。
「その言葉、そっくりそのまま、お返しするぜ」





 図星を指されて、うっと言葉に詰まったリフィルは、ちょうど良い位置にあるゼロスの脇腹にエルボーをかますと、一言憎々しげに吐き捨てた。
「……余計なお世話よ」












 はい、お待たせしました(?)、本命その3またの名を大本命、ゼロリフィです!(笑)
 ゼロリフィがマイナーだってことぐらい知ってますよ…(涙)でも私にとっては王道なんですよ(笑)
 書いてるうちに、段々ゼロスが止まらなくなって、何度も心の中で「この変態があっ!」と叫びました(笑)だいぶ大人しくさせました(爆笑)
 今年最後の更新がゼロリフィになって、ちょっと嬉しいですv


 今年一年の感謝をめいっぱい込めまして。
 (遅ればせながら)Merry Christmas!
 そして、皆様に良い年が訪れますように。
2005.12.31