頭を伏す者





  俯くもの




 夢の終わりは、いつもあの時。





「しいな」
 私を呼ぶこの声は、大好きな母上のもの。
 母上の声はよく通る。ちょっと低めで、でも、綺麗な濡れた声だ。私は、この声に名前を呼ばれるのが大好きだった。
 ヴォルトとの契約を直前に控えて、緊張と不安のあまり、口も開けない私に、明るい声で話しかけてくれる。
「大丈夫? 不安?」
 おろしたての衣の裾を握り締め、口をぎゅっと引く私の頭に、母上の手が乗っかって、くしゃくしゃっと髪を撫でてくれる。母上の手は、節があるけど、力強い。
「…失敗したら、どうしよう」
 散々言うべきかどうか迷った挙句、私はやっぱりそう言ってしまった。
「契約出来なかったら、どうしよう」
 母上の手に安心して言ってしまった台詞も、一度口にしたら、それは重い枷となる。
 ずしんと背中に乗った重しに、首が上がらない。顔を真っ直ぐ上げることが出来ない。
「…その時は、もう一回挑戦すればいいだけよ」
 優しい声がそう告げて、私の肩を母上の温かい手が包む。俯いた顔の下から、母上の若草色の瞳が、私の泣きそうな目を正面から射抜く。
「成功するまで、何度だって挑戦すればいいわ。お母さんもお父さんも、頭領も、ずっとしいなの傍にいるんだもの」
 そう、母上はいつだって、私を愛してくれた。
 血の繋がっていない私を。
 おじいちゃんの拾われっ子でしかない私を。
 肩を包んでいた手が、頭の後ろに伸びてきて、私はいきなり母上の腕の中に抱き締められる。温かい。もう、こんなことして貰うほど子供じゃないのに、と思ったけれど、私は反射的に母上の背中にしがみついた。
「ねぇ、里に戻ったら、新しい着物、作ってあげるわ」
 母上の衣に縋りついて、ぎゅっと抱いてもらって。
 くちなわとよく似ている、母上の綺麗でまっすぐな黒い髪が、母上の横顔に垂れている。そして、苦笑いして私の頬にこすりつけてくれる、母上の顔の中、笑った目許がおろちに似ている。
 今は、母上から確かに受け継いでいるもののある二人が羨ましかった。
「私が祝言の時に着た、晴着があるのよ。濃緋の地色の上に、縹と翡翠と桃色で、大輪の牡丹が鮮やかに染めてある、綺麗な着物。
 しいなに会ってから、いつかあげようって、ずっと思ってた。里に戻ったら、お祝いに、しいなに贈るわね」
 ぽんぽん、と母上の手があたしの背中で跳ねている。母上の大事な晴着。昔、虫干しの日に見たことがある。懐かしそうに、着物を手に取る母上と、いつもの仏頂面を珍しく緩めた父上が、十も二十も若くなったみたいに、幸せそうに笑っていたことを。
「だから、楽しみにして帰ってらっしゃい」
 するり、と母上の腕が私から離れていく。不安でたまらなくて、母上を見上げると、力強い微笑みを返された。小さい頃から、ずっと信じてきた、あの笑顔を。
 母上が、あたしの頬を両手で挟んで引っ張っていると、おじいちゃんが横からやって来て、母上をたしなめながら私の手を取る。
「こら、ひすい。そろそろ行くぞ」
「はぁい。わかってます。頭領も気をつけて。しいなのこと、お願いするからね」
「お前に言われんでもわかってる」
 母上とおじいちゃんの会話を聞きながら、ちらっと周囲の様子を見回す。見慣れない遺跡、聞き慣れない音、慣れない気配。募る不安を自覚し始めた頃、それまで黙っていた父上が、不意に口を開いた。
「後ろのことは心配するな。前だけ見て、やれることをすれば大丈夫だ」
 ふざけて抱きついては、軽々と抱え上げてくれた腕が、私の頭を優しく撫でる。父上を見上げて小さく頷くと、くちなわに似ている目許を細めて、父上も小さく頷いた。
 おじいちゃんが、渋っている私の手を、軽く引っ張る。
「それじゃあ、しいな。行くとするか」
「…うん」
 暗くて深い闇の淵、初めて踏み入るヴォルトの神殿の入り口へ、私とおじいちゃんは歩き出した。
 後ろを振り返ると、母上が手を振ってくれる。
 父上はいつもと変わらない。どっしり構えて腕組みをしている。
 頭の上から、おじいちゃんが私の指を握る手に力を込める。
「わしがいるから、そう気負うな」
 そう、私の不安を明るく笑い飛ばしてくれる。
 あたしは精一杯笑って頷くと、もう一度、ちらっと背中を振り返った。
 ずっと遠くに小さくなった父上と母上が、まだ、私の背中を見つめてくれていた。







  仰ぎ見るもの




「くちなわ」
 くそ。余計な話をするつもりはなかったのに。
 呼び止めた声に、嫌々振り返る。長く伸ばした髪が、軽く引っ掛けていた肩から、ぱさりと背中に落ちた。
「最近、元気にしてるのか?」
 呼び止めといてそれだけかよ。
 くちなわは舌打ちして眉をひそめ、苛々しつつ吐き捨てる。
「…それなりに」
 くちなわの兄のおろちは、弟の素っ気ない態度にも、顔色一つ変えなかった。わざわざそんなこと聞かなくたって、おろちのことだ。どうせ、初めからわかって聞いているに違いない。
「副頭領も心配しているし、たまには里に寄り付け。そのうち、顔を忘れられても知らないぞ」
 屋敷の奥の間は薄暗い。おろちの顔は、半分闇に沈んでいた。
 兄の性格はよくわかっているつもりだ。穏やかで物静かな表面の一枚下で、どんなことだって毛の一筋も変えずに出来る冷酷さも持っている。こうして、くちなわに近況を聞く声も、仕事の報告を尋ねた声と変わらない。
 その、あまりのギャップのなさが怖い。
「…もう、ガキじゃあるまいし。やるべきことはちゃんとやってる。あとはほっといてもらう」
 兄者とタイマンはったって、別に得がある訳じゃない。
 突っぱねるように言って、返事も聞かずに飛び出した。
 ずんずんと屋敷を抜けて向かうのは、屋敷の裏の小さな丘。里に帰っても、どうせすぐにまた出るつもりだったから、旅装は解いていない。青草の上に荷物を広げて、不足しているものを確かめると、再びきっちり包み直した。ないものだけは、後で補充しなければならない。
 花びらの散った後の桜の木が、生まれたての葉を、空を覆い尽くさんばかりに繁らせている。少し強い風が吹くと、大きくしなって、ざざあと木々が泣く。
 頭の真後ろできっちり結んだ黒髪が、風に乱される。
 胡坐をかいて頬杖をついた体勢から、身体を伸ばして、ばたりと青草の上に仰向けになった。生気の溢れた若葉が、ちくちくと足や腕に刺さるけれど、細かいことは気にしない。
 仰ぎ、見上げた空は抜けるような天空の色。
 雲一つない。染み一つない。
 父上と母上がいなくなって、祖父様もいなくなって。
 しいなも、いなくなって。
 家族は、櫛の歯が抜けるみたいに、ぽろぽろと零れ落ちていった。壊れた櫛でいくら髪を梳いても、綺麗になんて整いやしない。逆に、引っ掛かりが出来て、梳けば梳くほどその引っ掛かりが大きなダマになっていく。
 自分と兄だけでは、世界は回らない。
 父と母と、祖父と、…しいながいないと。
(…俺も馬鹿だな)
 けれど、いくら望んだって、過ぎたものは戻りはしない。いなくなった人が帰ることなんてない。
 反動をつけて上半身を起こし、乱れた髪を結い直すと、再び立ち上がる。
 ふと眼下を見ると、里のすべてが一望出来た。
 寄り固まって立つ家々。小さな広場。里の真ん中を流れる小川。
 約束は、どうした、しいな?
 しいながこの里を守り、自分がしいなを守る。
 幼い頃の無邪気な誓いが脳裏に蘇る。こんな未来など、予想もしていなかった、純粋で愚かな口約束。
 しいながそれを破った以上、自分だけが頑なに約束を守り続けることは、彼の性格からは到底難しい話だった。こんな、やり場のない怒りと憎しみと愛しさを抱えて生きていくことは、絶対に無理だ。
「…いつか、きっと」
 終わらせるなら、自分の手で。
 兄でも、他の誰でもなく。あの約束を交わした、自分の手で。
 この、怒りと憎しみと愛しさに決着をつける。
 くちなわは、深紅の瞳をすがめてしばらく里を見下ろしていたが、長い感傷の後、ようやく青草の揺れる丘を後にした。








  見据えるもの




「おろち」
 里の入り口の門から、遥かにガオラキアの森の中へ消えた、しいなの後ろ姿を見送っていると、隣に立っていた副頭領のタイガが、憮然とした表情で彼の名を呼んだ。
「本当に良かったのか、くちなわのやつ。しいなの見送りにも来ないで」
 精霊と契約し、それを使役する能力に関して、メルトキオの精霊研究所から研究の協力依頼を受けていたしいなは、その研究所に向かうため、たった今、ミズホの里を発ったところだった。
「あいつは頑固者ですし。言っても無駄です。好きにさせるに限ります」
 しいなの姿が見えなくなってから踵を返し、苦笑まじりに頭を振る。
 そうして放っているだけですべてが解決するとは、到底思ってはいなかったが、逆に言えば、口にしたからと言って解決する問題でもない。
「…そうは言ってもな」
 溜め息まじりにタイガは頭を抱える。祖父・イガグリの弟の子であるタイガは、昔からイガグリの片腕としてミズホの頭領一家を支えている。従姉妹のひすい達の死後は、おろちとくちなわの後見も引き受けてくれていた。
「…あいつの性格じゃあ、無理ですよ」
 くちなわがしいなに抱いている複雑な感情ぐらい、おろちが気付かぬ訳もない。だが、気付いたところで、それを直接くちなわに向かって言えやしない。
 すたすたと里の中へ向かっていくおろちの長身の背を眺めつつ、タイガは苦虫を噛み潰したような顔で呟く。
「おろち。…お前も、程々にな」
 その口調の下の気遣いと叱るような響きに、おろちはくるりと振り返った。くちなわと対照的に短く切り揃えた栗色の髪が、彼の穏やかな雰囲気にはよく似合う。
 茶色の瞳が、会話を煙に巻くように微笑んでいた。
「わかっていますよ」
 人影の少ない里の中を、屋敷に向かって歩いていく。里が、火が消えたようになっているのは、昨日今日始まったことではない。あの、ヴォルトの暴走の際に、多くの里人が命を落としてからだ。戦えるものはすべて、一時も里に留まることなく与えられた仕事に就き、必死に里を支えている。
 今、里にいるのは年少の者と、非戦闘員、ほんのわずかな里の守護役だけだ。
 このままでは、いずれ、ミズホの里は消える。
 ヴォルトの暴走以来、おろちはずっとそう思い続けて来た。なんとかして、この状況を打開する策を考えなければならない。それが、自分がすべきこと。
 里を抜けて、一番奥の屋敷の前に立つ。幼い頃からずっと住み慣れた、頭領一家の屋敷、彼の住む場所。今は人気のほとんどない屋敷に、真っ直ぐ上がる。縁側を、足音を立てずに軽やかに通り過ぎ、屋敷の、一番奥の座敷まで来ると、彼は迷わず障子を大きく開け放った。
 すぐ手前には布団が敷いてあって、そこには、小柄な人影が横たわっている。
「祖父様、暗い座敷にばっかりいると、身体によくないですよ。日向ぼっこしましょう」
 布団の中のイガグリは返事をしないし、ぴくりとも動かない。だが、おろちは気にせず、布団を縁側の手前まで引き出すと、その横に腰を下ろした。
 祖父の瞼は重い。触れればちゃんと温かくて、生きているのは間違いないのに、彼はヴォルトの暴走の時に大怪我を負って以来、目を覚ますことを忘れてしまったようだった。
「…今日、しいながメルトキオに発ちました。うちも、寂しくなりますねぇ」
 たとえ、くちなわが、内心でしいなをどう思っていたとしても、この家の中心はしいなだった。しいながいるうちは、なんだかんだでちゃんと家に帰ってきていたくちなわも、これからは更に家に寄り付かなくなるだろうし、この広い屋敷は火が消えたようになってしまうに違いない。
「…タイガ殿に、程々にしろと言われてしまいました」
 くちなわも自分勝手に、がむしゃらに行動しているが、それはおろちも同じだ。周りが見て心配するほどの重責を、望んで引き受けている。
「別に、無茶をしているつもりはないんですけどねぇ」
 すうっと、心地好い風が縁側に吹き込んで来る。うららかな日差しに目を細め、おろちは胡坐をかいた膝の上で、所在無さそうに頬杖をつく。
「…祖父様がなんて言ったって、俺は、後悔しませんよ。くちなわに、父上と母上の最期を見せなかったことを」
 全部を、一人で背負い込んだことを。
 しいなを庇護し、くちなわを宥め、二人の間に同じ距離で立ったことを。
「父上と母上に怒られても、ね」
 ふっ、と表情を緩め、おろちは思う。
 両親の死に様は、とても口には出来ない。両親の遺体を前にして、これが、本当に人だったモノか、と悲しみよりも驚きよりも前に思った。ヴォルトの、精霊というものの圧倒的な力を思い知らされた気がした。
 これは、人の力でどうにかなるものではない、と。
 それもあって、おろちは里人の多くがしいなを憎んだように、彼女を憎むことはなかった。あれはしいなの落ち度ではない。いや、彼女の力不足も勿論あるが、それより何より、ヴォルトの圧倒的な力を考えれば、人の力が及ばなくても無理はないとしか思えなかった。
 どこを見るともなく、空中を彷徨っていた視線が、すうっと真っ直ぐ、庭に向けられる。
「くちなわも、しいなも、里も、全部俺が守りますから。心配なんてしないで、ゆっくり傷を治してください」
 静かな朝の庭の中で、葉擦れの音だけが、そよそよ鳴っている。
 誰からの返事も期待しないまま、おろちは呟いた。
 これでいい。これがいい。
 これが、俺の生き方だ。
「馬鹿だって言われようが、俺は諦めませんから」
 しいなのことも、くちなわのことも、変わらず愛し続け、支え続けると。
 微かに前髪を揺らす風に瞳を細め、おろちはひたと庭の先、彼にしか見えぬ視線の向こうを見つめ続けていた。














 3周年御礼ということで無料配布した冊子より。
 ミズホトリオをしっかりばっちり書ききれるくらいの長い話は、前から書きたいと思ってまして。
 しいなが頭領に拾われてから、ヴォルトの暴走までの間と、ヴォルト暴走の後ロイド達に会うまでの間、そしてロイド達に会ってから後。
 3人にとって、それぞれの間には劇的な違いがあって、それぞれ色々悩んで苦しんでたはず…、とか、ふと思えばミズホトリオの設定は公式じゃなかったんだっけ、と思いつつ、いつかきちんと書いてみたいです(笑)


 そうなんですよね、蛇兄弟の設定は公式じゃないんだった…(笑)
 あの二人、しいなの幼馴染だって、完全に思い込んでた(笑)

2007.4.15