あとすこし





 闇に覆われた家々を見て、出てくるのは溜め息と小さい頃の想い出ばかり。
 一、二軒の障子に明かりが灯っているのが見えるだけで、あとは全部夜の闇の中。
 せめて、今が昼間なら良かったのにと、どうにもならないことだけが胸をよぎる。



 この景色を眺めていられるのも、あとすこし。
 言葉に出せない気持ちを抱えたまま、去ろうか。
 それとも、言ってみようか。



 …いいや、どっちにしろ、言える訳ないよね。
 今になって、サ。





「…しいなか?」
 訝しげな声に物思いを破られて、しいなは驚いて顔を上げた。
 心臓が跳ね上がる。ちょうどほんの今まで、その声の主のことを考えていたのだ。声だけで、その主が一発でわかってしまう。
「びっくりさせないどくれよ…」
 顔が赤くなっていないか焦ってしまう。どうせ墨を溶かしたように真っ暗だ。細かい表情や顔色まで見える訳がないが、そんなことまで頭は回らない。
 そんな真っ暗な道を、さくさくと踏み締めて歩み寄った忍は、顔の半分を隠す布をはぎ取って破顔した。
「こっちもびっくりしたからおあいこさ。いつ戻って来たんだ、しいな?皆さんは一緒なのか?」
「いや、皆はいないよ。あんたこそ、任務の途中じゃないのかい、おろち?」
 道の向こうからやってきて物思いを破ったのは、しいなの幼馴染み、蛇の名を持つ兄弟の一人のおろちであった。いくらしいながぼんやりしていたとは言え、この距離まで気付かれないとは流石である。
 この真っ暗闇では表情も窺えないから、言葉の奥に隠された感情を読むしかない。
 しいなの口調の慌てに気付いて、おろちは頬を緩める。勿論、しいなに表情が見えないと分かっているからだ。
「まぁな。それより、何かあったのか?」
 里のはずれに聳える桜の老木の根元には、お地蔵さんが三つ並んでいる。いつからあるか分からない程古くからそこにあって、里の皆に親しまれている。
 しいなはそのお地蔵さんの前に、膝を抱えて座っていた。この場所にしいながいる時は、何か悩んでいる事、困っている事がある時に決まっている。
 おろちはもちろんそれを承知していた。
 お見通しか。
 と、しいなは苦笑した。けれどそれが嫌なのではない。
 それだけの長い付き合いだということだ。




「…実はサ」
 おろちが腰を下ろしたのを気配で確認し、しいなは重い口を開いて経緯を説明し始めた。
 精霊の楔を抜くため、各地の精霊を解放している事。精霊の楔を抜く事により、シルヴァラントとテセアラの間のマナの流れを分断して二つの世界を切り離そうとしている事。そして、二つの世界の間のマナがなくなれば両世界を行き来することが出来なくなってしまう事…。
 おろちも知っている事はいくつかあったが、特に最後の話は衝撃的だった。
「そうか…。神子やレザレノの会長は悩むだろうな…」
 言う声に、自身の戸惑いが表われているのがわかる。渋い顔で頷き、しいなが後を続ける。
「あいつらだけじゃないよ。リフィルやジーニアスもテセアラの出身だし」
 溜め息と共に呟いたきり、しいなは黙りこくってしまった。それ以上は言わずとも明らかだった。
 おろちはぼんやりと空を見上げた。メルトキオとは違ってミズホは空気がいい。夜空は零れるほどの星がちりばめられていた。
 沈黙は苦痛ではなかった。むしろその方が、二人、共にいるという感覚を確かにしてくれる。
 心地良い沈黙を、ぽつん、としたおろちの声が破った。
「…おまえは、シルヴァラントに行くのか…」
 そうだ、と迷わず言うべきだったがすぐには言葉が出なかった。行きたくない、いや、離れたくないと思っている自分がいることを、出ない言葉が気付かせる。
 深呼吸して、それでようやく言葉が声になる。
「…ああ。あたしがルナ達と契約しないと何にもならないから」
「そうか」
 答えたおろちの言葉は短か過ぎて、しいなにはそれに含まれる意味がわからなかった。





 テセアラでの任務についている者は、テセアラに残るしかない―タイガの言葉が蘇る。
 もし彼がテセアラでの任務中ならば―。会えるのはおそらく今夜が最後。
 聞こうか聞くまいか、しいなが悶々と悩んでいると。
「残念だな。俺もシルヴァラントに行きたかったよ」
 あっさりと、しいなの心の中の声に答えが返った。いっそ清々しいくらい、あっさりと。
「…そっか。任務中…だよね」
 あんまりにも落胆の色を隠しきれていない返事をしてしまって、しいなは思わず口を押さえた。



 今更、この気持ちに気付かれてはいけない。
 ずっとずっと隠して続けてきたのに、もう、お別れと言う時になって知られるなんて馬鹿にも程がある。
 慌てて明るい口調を作り、言葉を続ける。
「あんたはタイガさまの右腕だもんね…!まさか、こんな時に暇な訳ないだろうし!やだねぇ、あたしってば、何言ってんだろ…!」
 おろちの表情が分からないしいなは、両手を振りながら必死の弁解を続けている。
 …違うよ。
 心の中でそう呟くと、迷わず右手を伸ばした。



 左手を、力強い手が握った。
 ふいに触れた肌に、しいなはびっくりして動きが固まる。
「しいな」
 体が熱い。握られている左腕の手首から、何か熱いものでも入り込んでいるような気分だった。そこから、全身に熱が広がってゆく。
 反射的に振りほどこうと腕をひねるが、放してくれない。たちまちしいなの頭は混乱し始めた。
「…出来れば、俺もお前と行きたい。いや、里中の皆がそう思ってる」
 引っ張られたかと思うと、すぐ耳元でおろちの声が聞こえた。
 子供の頃は、よく耳元で人の声を聞いたものだ。ふざけてじゃれあって、首っ玉にかじりつき大声で笑った。けれど、大人になるとその機会は断然減ってしまう。
 寝ぼけたコレットが抱き付いて来た時以来だ、とあらぬことを考えて気を逸らすが、すぐ側で聞こえる声と言葉に意識を傾けないでいるのは不可能というものだった。
 声は淡々と続く。
「でも俺は、ここに残らなくちゃならない。しいなが、シルヴァラントでミズホを束ねるのと同じく、テセアラに残るミズホは、俺が守らないといけないから」
 耳元の声は優しくて優しくて、これから先この声が聞けなくなるのかと思うと、もう条件反射で涙腺が緩くなってしまう。



 一番、聞き慣れた声。
 祖父も日常も全て失った後にも、変わらず傍にいてくれた。
 そして、親を知らず、唯一の家族は十年以上も眠ったままのしいなにとって、最も長い時間を共有して来た家族のような存在でもある。
 だから今更、「好き」、だなんて。
 遅過ぎるよね…。




「わかってるよ…っ!」
 何がわかってるのだかわからぬまま、しいなは大声を上げた。迷惑を掛けたい訳でも、子供っぽく駄々をこねるつもりでもないのに、嫌だと声を上げて叫びたかった。




「しいな…」
 泣き出しそうなしいなの声に、思わず抱き締めたくなる。
 昔はこんな風にごちゃごちゃ考えることも必要なくて。ただ涙脆いしいなが泣いた時に、ぎゅっと抱いてあげれば、それで良かった。
 今はそうもいかない。何も考えずにいたあの頃より、ずっとずっとこの気持ちは強いのに。
 愛していると。しいなが望むのなら家族でも恋人でも構わない。傍にいたいのだと、そう言えればどんなにか楽だろう。でも、今では自分にも背負わなければならないものがある。
 昔の罪を背負い続けるしいなを、昔よりずっと重い責任を担うしいなを、支えたいと口に出すことさえ出来ない。
 いや、責任も義務も全て投げ出してそう願えば叶わぬこともないだろう。弟のように。くちなわが教皇と繋がっていたことは、おろちにとって驚くことではなかった。何しろ、しいなにもタイガにも秘密裏に教皇との繋がりを作っておこうと決めたのは、他ならぬ彼ら二人なのだから。それがひいては里の為にもなることだと考えて。
 だが、まさかくちなわが、教皇に荷担して、しいなの命を狙おうとする程までに思い詰めていたとは考えていなかったけれど。災害の責任と里の人々の恨みを一身に背負わされていた七つの女の子を、妹のように思っていた少女を支えてやろうと、弟と誓い合った日もあったというのに。
 そしてまた、しいなへの気持ちが強ければ強いだけ、くちなわの中でもしいなを許せない気持ちがいや増していったのだろう。



 今、しいなの頭の中では、くちなわのこと、世界のこと、色々なことが渦巻いているに違いない。
 最後だからこそ気持ちを伝えたいとも思う。でもそれ以上に、自分はこの愛しい幼馴染みの心を乱したくはなかった。
「しいな。どこにいたって、俺はしいなの味方だ。ガキの頃、そう約束しただろ?それは今だって、これからだって変わらない。
 …もし、もう会えないんだとしても、俺はしいなの幸せと頑張りをいつでも応援してるから」




 …だから願うよ。
 口に出せば枷になって、君を迷わせてしまう願いだけど。この仕草から、言葉から、少しでも君それをが感じて、これからの力に出来るように。
 これが、俺が君に出来ること。
 そう、願うよ。




 ふわり、と微笑んでしいなは顔を上げた。正面で、見慣れた黒い瞳が彼女を見つめ返している。さっきまで闇の中にあって、よく見えなかったおろちの顔がよく見えるようになった気がした。
 その表情はいつも優しい。弟と二人、しいなをかばい、気を配り、ぬくもりをくれた。その、昔と変わらぬ顔がそこにある。



 ああ…、そうやってあんたはいつもあたしに力をくれるんだよね。
 だから、あたしはここまで来れたのかも知れない。あんたの、くちなわの、里の皆の気持ちと一緒に。
 あたしが、あんたに出来ること。
 この、「好き」な気持ちと、思い出を胸に生きて行く。あんたの思いを感じながら、何処ででも。
 それで、いいんだよね?




「…ありがと。もう、行くね」
 目尻に浮かんでいた微かな涙を二の腕でぐいっと拭うとしいなは立ち上がった。左の手を握っていた大きな手は、いともあっさりと離れて、しいなの眉間に無意識の皺が寄る。さっきまで触れられていた部分は、夜風に当たるとひどく冷たくて、別れの痛みを強く感じさせられる。
「…元気でな」
「あんたこそ。…お祖父ちゃんをお願いね」
「ああ」
 ゆっくりとおろちも立ち上がった。おろちの方が10センチは高い。見上げると、視線が触れる。彼は名残惜しい顔なんてしない。そうすると気持ちが残ってしまう。だから、しいなも笑った。
「それじゃ」
「ああ」
 村の入口に降りて行く道すがら、しいなは幾度も振り返った。その度に淋しそうに微笑んで、後ろ髪を引かれるようにまた先へ歩み出す。
 そして、おろちもまたしいなの姿が見えなくなってしまうまで、ずっとそこに立ち尽くしていた。
「さて…」
 振り切るように呟くと、おろちは再び顔を覆う布をつけた。今まではしいなの幼馴染みの自分、そしてここからはミズホの忍としての自分だ。忍としての自分には休んでいる間などない。
 立ち去る瞬間、彼は何かを一言呟いたがその声はあまりに小さかった上に、彼らの他には誰もいなかったので、聞き拾われなかった。





 いや、ないように思われた。が、そうではなかった。その言葉を向けられた男は、しっかりと聞いていた。舌打ち混じりで。
「何が、しいなを頼むだ…!」
 出て来る言葉はついつい怒り混じりになってしまう。
「我が兄者ながら情けない。俺に頼むくらいなら自分でやれと言うのに」
 くちなわがしいなの命を狙っていると知っているくせに、平気でそんなことを頼んでくるとは。親と同様に自分を育てた兄である。もう少し腰抜けではないと思っていた。
 まあ、しいながこの木の下に座ってからずっと、身動ぎもせず気配を殺していた自分に気付いていたとは思わなかったが。
「シルヴァラントか…」
 ちらりと空を見上げると、満天の星々の中にシルヴァラントが浮かんでいる。くちなわは苦笑を噛み殺し、木から飛び下りてしいなの後を追う。
 兄には誤解されているようだが、彼はしいなを殺すのを諦めた訳ではない。ただ闇討ちのような手段は取りたくないだけだし、今は教皇からも彼らの監視を命ぜられている。どちらにせよ、このまましいながシルヴァラントから帰って来れなければ、くちなわは永遠に彼女を倒す機会を失ってしまうだろう。
 しいなを倒す事を生きる糧としてきた彼にとって、それはあってはならないことだ。  そう、頭の中で言い訳めかしく考える。
「仕方がない…。行くか」
 一人ごちると、くちなわはしいなに気取られないよう、十分な距離を取りながら彼女の後を追って行った。














 おろち兄さん別人で済みません…っ(大汗)
 でも、結構気に入ってたりします、この兄さん(大笑)

 マイ設定では、兄さんは里でも右に出る者がいないくらい強くて、里の人の一部からは、次期頭領にって言われてるくらい。
 でも、彼はしいなの右腕になれれば十分、みたいな(笑)
 くちなわはしいなが好きなんだけど、おろち兄さんの気持ちにもしいなの気持ちにも気付いてて、何か仲間はずれにされてる感じがして、ちょっと嫉妬。
 で、しいなに対しても、好きなんだけどやっぱり許せない気持ちがあったりして、悩んじゃっておりますね。
 くちなわがしいなと同い年で、おろち兄さんが二つ、三つ年上、でしょうか。

 というようなコトを妄想しながら書いてました(笑)
 うーん、気に入ってるけど、微妙かも…?
 そして、段々こじつけになっていくお題(苦笑)
2004.11.13