誕生日





 ずっとずっとここから逃げ出したいと思っていたの。
 自分が籠の中にいるのだと知ってしまった瞬間から。




 窓の外の景色は穏やかだった。
 彼女の部屋は、この修道院でも一番眺めがいいので、大海が一望出来る。
 海は、日一日、刻一刻と顔を変え、彼女を慰めてくれる。
 しかし、逆に言えば、窓からは海しか見えない。島も見えず、船が通ることも滅多にない。絶海の孤島を思わせる風景なのだ。
 この部屋は一番眺めが良いのと同時に、彼女が軟禁された身であることをしみじみと感じさせる場所だった。




 今日もまた彼女は窓辺に座っていた。彼女はこの窓からの景色が決して嫌いではない。まるで、四方を大海原に囲まれているかのように錯覚してしまう、この風景。それは、修道院から出られない事実を思い知らすものだとはわかっていたが、逆に外の世界を知らぬ彼女にとってはまだ見ぬ世界を彷彿とさせる風景でもあった。




 今はちょうど凪で、言わず色の夕焼けの光を受けたさざなみが黄金色に輝いていた。
 その眩い光が彼女の頬を明るく照らす反面、室内はかなり薄暗い藍色になりかけていた。少女の短い髪は目の醒めるようなスカーレットで、夕焼けの色と溶け込むように微かに浜風に揺れていた。
 彼女は窓の外に顔を向けたまま、あきれた声で小さく笑う。
「…ノックもしないなんて、礼儀がなってないんじゃありませんこと?」
「今更、礼儀も何もないじゃないか」
 藍色の薄暗がりの中から、苦笑を噛み殺した声が返ってくる。
「あら、わたくし、貴女をお招きした記憶はないのですけど、しいな?」
 振り返って少女が言った。大人と少女の、ちょうど中間のような微妙な年頃だ。眩しい夕焼けから、突然薄暗い室内に目を移したので、柘榴石のような瞳を薄く細めている。
 藤袴色の衣を翻して、しいなが少女の前に立った。じっと、その漆黒の双眸で少女を見つめる。
「…嬉しくないのかい、セレス?」
 一瞬セレスは黙り込んだ。そう聞かれるだろうことはわかっていたのに。自分の顔に浮かぶ表情が晴々としたものではないことぐらい承知している。
「…嬉しいですわよ」
 顔を背けて、こう言った。一目瞭然だ。しいなでなくとも、わかる反応だった。
「嘘。そんな声して何言ってんのさ」
「本当よ。嬉しくないわけないでしょう」



 ここから自由になれるのに。



「ただ、恩赦だなんて想像もしていなかっただけですわ」




 恩赦。特別に許されて、ここを出る。
 でも、望んでいたのはそんなことじゃない。




「一生、死ぬまでここで生きていく。…それが、わたくしにふさわしい生き方だと思っていたのに」
「あんた…、神子になりたかったんじゃないのかい?」
 しいなが尋ねた。だがその声には、意外なものを聞いたという響きはない。しいなは、セレスの机の上から、オルゴールを取って所在無さそうに玩んでいる。シンプルだが、センスの良い金細工が施された大振りのオルゴール。
 ゆっくりと歩きながら、セレスがごちた。小さな声だったが、室内は静かだったのでしいなにも聞こえた。
「別に神子じゃなくても良かったの。ただ、わたくしは、わたくしという存在に理由が欲しかっただけ。ただのセレスではなく、神子セレスという存在理由が、ね」
 灯りのスイッチを点け、壁にもたれる。瞼を閉じると、思い出したくもない、過去のことが甦ってくる。




 父には一度か二度しか会ったことがない。それもごく小さい時。
 母は、恨んだことしかない。彼女が死んだのは、セレスが2歳の時だったから、記憶にも残っていない。
 セレスが母に対して持っているのは、自分をこんなところに押し込める原因を作ったことへの恨みと、唯一の兄を奪った恨みだけ。




 小さい頃は、母が恋しくて仕方がなかった。修道院には同年代の子もいたが、彼女達には夏と冬の一週間、帰る家があったし、待っている母がいた。けれど、セレスには帰る家も、待つ母もいない。それが悲しくて、よく泣いたものだった。
 しかし、セレスが11歳の時、真実を知ってしまった瞬間から全ては変わった。
 彼女は母を思って泣かなくなった。家に帰りたいと思わなくなった。






 そして、もう兄に会う資格もないと思った。




「自分が、誰にも望まれていない存在だって認めるのが、すごく嫌だったから。
 わたくしは神子になりたかった。
 誰にも望まれる神子になりたかった。
 神子の人生がどのようなものか、良くわかっていてもね」
 そう言って、セレスは歪んだ笑みを口の端に浮かべた。その表情は、とても18歳の少女のものだとは思えなかった。修道院で育った16年間は、セレスにとって孤独と絶望を嫌というほど味わわせた年月でもあるのだ。




「…あんたは、誰にも望まれてなくなんかないよ」
 しいなが、小さく笑った。手の中のオルゴールをそっと開く。軽快なメロディーがすっかり暗くなってしまった部屋にたゆたうように流れる。それは、子供が好んで歌う童謡の一つで、セレスも昔はオルゴールに合わせてよく歌ったものだった。
 オルゴールを置くと、今度は本棚から洒落た革張りの本を取り出して机に置く。次はベッドの上のくまの縫いぐるみ、水晶のペンダント、珍しい色のインクのセットと羽ペン、などなど。
 そして、最後に、セレスが被っているつばの広い帽子を取った。
「…でしょ?」
 もう一度、しいなが笑う。今度は真夏の向日葵のような、明るい笑顔で。





 気づけば、涙が頬を伝わって零れていた。言いたいことはたくさんあるのに、どれも声になってくれない。辛うじて、一言囁きを絞り出す。
「…どうして知ってるのよ…」
 これらのものをくれたのが、兄であることを。
 毎年、誕生日になると送られてくる、セレスにとって世界で一番楽しみなものだということを。




 会う資格がないと思えば思うほど、会いたくなった。
 望まれていないのだと思えば思うほど、認めて欲しくなった。
 毎年毎年送られてくるプレゼントを見れば見るほど、母を恨んだ。



 あったはずの幸せ、あったはずの生活を思って。





 セレスの肩をそっと抱いて、しいなが言う。
「何度か、一緒に探したことあるんだよ、あんたへのプレゼント。あいつ、普段はプレゼントなんてもらう専門だろ?しかも相手は年上ばっかりでさ。年下の女の子へのプレゼントなんてわからないから、一緒に考えてくれって」
 いくらゼロスでも女の子が望みそうなものがわからないはずがない。それでも、セレスに嫌われたくなかったから。しいなを引き連れ、プレゼントを探す、まだ幼い頃のゼロスが脳裏をよぎって、しいなは微笑みを抑え切れなかった。




「あんたはゼロスにとって、大切な大切な妹だよ。どんな時だって、あいつはあんたを忘れたことなんてないだろうし、これからも忘れることはないだろうよ。その証拠に、ほら」
 差し出されたしいなの手の上には、コバルトブルーのレースのリボンがかけられた、天色の小箱がちょこんと載っていた。受け取りかねているセレスの手に、しいなは無理やり小箱を押し付けた。
「遅くなってごめん、ってさ。今年は色々あったから、許してやりなよ?」
 今年のセレスの誕生日は一ヶ月ほど前に過ぎていた。一ヶ月前と言えば、ちょうどテセアラの救いの塔が破壊されて、大樹が蘇った頃だ。当然ゼロスもそれどころではなかったのだと頭では理解しているものの、やはり気にしてしまっていたのだった。




 おそるおそる、包みを開ける。
 小箱の中には、一組のイアリングが収まっていた。
 小さな紅玉で小花をあしらった、綺麗な意匠だった。
 真夏の空に燦然と輝くアンタレスのように、暗い室内でも小さな光を放っている。
「…綺麗…」
 ぽつりとセレスが呟いた。全身に沁みこむように、暖かいものが広がっていく。
「今回のは、あいつの奥さんも一緒に探してたんだよ。ゼロスはつい女の子っぽい可愛いのを選んじゃうんだけど、リフィルが、少し大人っぽい方がいいって言ってね。あいつ、納得させられてた」



 あれこれと提案してみるものの、結局リフィルに押し切られるゼロスが思い出される。
 ある日曜の午後、メルトキオの骨董市で。
 骨董市がいいと言ったのもやっぱりリフィルで。
 リフィルが示したイアリングは確かに綺麗で値打ちものだった。
 反論しかけた口から苦笑がもれ、そして笑みが溢れた。
 なにしろそれは、愛しの妹に相応しい、零れるような紅い星。




 セレスもつられて微笑みを浮かべた。
「お兄様の奥さん、どんな人?」
「そうだねぇ…、さばさばしてて、料理が破滅的に下手で、遺跡マニアで、結構手を出すのも早いね」
「何だか良い所がないみたい」
「でも、結局は優しくて明るくて、何でも話せちゃうような人だよ」
 と、言うしいなの表情を見て、セレスにはそれが嘘ではないことが分かった。












「いつメルトキオに帰る?」
「そうですわね…。出来る限り近いうちに」
 しいなを修道院の出口で見送る。あたりはすっかり夕闇に包まれていたが、今日は満月なので道は明るかった。青白い月の光が、道を街灯のように照らしている。
「セレス、リフィルと仲良くね」
 荷物を担ぎなおし、しいなが振り返って笑った。一晩くらい泊まっていったら、と誘ったが、しいなはそれを丁寧に断った。彼女も、自分の里のことでかなり忙しいらしい。




 満面の笑みで、セレスはそれに答えた。耳に輝くイアリングが、涼しげな音で揺れる。
「大丈夫。わたくし、きっとお兄様より好きになれそうよ」






 これはたぶん、確信。
 そう遠くない未来。メルトキオのワイルダー邸で、わたくしは彼女と談笑しているの。
 お兄様は、それを少し離れた書斎で恨めしそうに見ているわ。
 わたくしはお兄様が嫉妬するくらいの、満面の笑顔で彼女と話していて。彼女は、背中の向こうのお兄様の視線に気付いていて、わたくしに悪戯っぽく微笑むの。
 でも、仕様がないんですのよ?
 お兄様は、神子なんだから。
 わたくしがなりたくてもなれなかった神子なんだから。




 わたくしはもういいですわ。
 神子にはなれなくても。
 心配してくれる人はいることだし。
 お兄様も、お義姉様も、わたくしを愛してくれるから。
 このままのわたくしにも、存在する意味があるって分かったから。




 でも、お兄様がどうしてもって言うなら、神子のお仕事、手伝って差し上げても良くてよ?
 そのうちわたくしが、神子の地位も、もらって差し上げるから。
 そうしたら、お兄様はお義姉様と二人で悠々自適に暮らせばいいわ。






 ね、こんな兄孝行も悪くないと思いませんこと?










 またもや少女漫画チック(笑)。誕生日にくまの縫いぐるみは犯罪ですよ、お兄さん。
 しかも、今回、文章で少し遊んでみたり。色の名前とか、石の名前とか。
 本当はもう少しごてごてするつもりだったんですけど、やりきれなかった…。残念。

 これは果たしてセレスでしょうか?(苦笑)
 私の中の彼女はこんな感じ。絶対彼女は自分のお母さんのこと、恨んでると思います。
 そういう点で、ゼロスや先生と一緒(萌)

 個人的には、セレスは幼いよりも、大人になりかけてる方がイメージに近いですね。
 恩赦とか、捏造し過ぎてるし!!流石に作りすぎかなあとか、思いつつも、めでたい時にそういうことはよくあるし、セレスは自分の罪で軟禁されてるんじゃないですしね。
 ま、いいか、と(笑)