オンライン





 天才。
 そう呼ばれなくなったのは、いつの頃からであろうか。


 シルヴァラントへ流れ着き、彼女を知る者が一人もいなくなってから?
 いや。おそらくは、幼い彼女の頭を撫で、褒め、慈しんでくれた者がいなくなったから。
 その一瞬前まで彼女の世界を形作り、守り育ててくれていた人に、突然裏切られた時から。


 生き抜くためには、目立ってはいけない。
 敷き詰められた道の上を、決してはみ出さぬよう、慎重に進む。
 影と同等の存在となり、誰にも気付かれず、目にも留められず、ひっそりと。
 鷹はひたすら鋭い爪を隠し、何事もないような顔をして、自分はただの鳩だと周りに示し続けた。



「冗談じゃなくてよ…。冗談じゃなくてよ!」
 誰もが信じられずに、声を荒げた人を穴が開くほど見つめていた。
 何時いかなる時でも冷静で、ロイドを諫め、コレットを励ましてきた皆の『先生』が、こんな風に怒ることがあるのか、と。
 一行が対峙しているのは、凶悪なモンスターでも裏切り者の男でもない。たった一人の女性だった。しかも、脆く哀れな心の抜け殻しか持たぬ女。
 全てを失い、ついには自分までも失ってしまった、…彼女自身の母。
「私は…っ、ずっと忘れたことなんてなかったのに!ずっとずっと恨んで、恨んで…っ!なのに、どうして貴女が私たちを忘れるの!?忘れてしまえるの!?」
 女性は、怒鳴るリフィルの剣幕に押され、おろおろと顔を曇らせた。
 正気を保ってさえいれば、さぞかし美人だろう。頬はこけ、髪はあちこちほつれて、よれた服を着ているけれど。その両手には大切に抱かれた古ぼけた人形があった。
 ロイドは、あまり凝視しては失礼だと思いつつも、その人形にちらちらと目を走らせた。リフィルが怒り始めたのは、間違いなくあの人形がきっかけだからだ。正確に言えば、彼女の母が、その古ぼけた人形を『リフィル』と呼んだ瞬間から。
「ああ…。静かにして下さい。リフィルが起きてしまいます。よしよし…、いい子ね、リフィル。泣かないわよね、あなたは偉い子だものね」
 人形に向ける微笑は、壊れそうな程透明で、余計にリフィルの心を傷つけた。


『貴女は本当に頭がいいのね。偉いわ、リフィル。貴女は私の自慢の娘よ』
 頭を撫でる温かい手。胸に蘇るのは、幼き日々。
 同じ笑顔を与えてくれた人は、もう二度と戻らない?


「…ずるいわ…。私は、そんな人形なんかじゃない…っ!私は…っ!」
 今にも女性に掴みかからんばかりのリフィルの前に立ったのは、他ならぬ彼女の弟だった。が、何が何でも彼女を止めるべきなのか掴みかねているのがよく分かった。ただしっかりと、姉に縋りつく。
 ジーニアスに止められ、リフィルは頭に血が上っていた自分に気がついた。こうなるまでは、母に会っても、冷静な顔で嫌味の一つでも言ってやれると思っていたのに。
 それが、今の自分はどうだ。
 らしくなく声を荒げ、仲間達には心配そうな視線を向けられ、弟には止められて。


 どうして?
 どうしてなの?
 私は、こんなのを望んでいたんじゃないのに。


 リフィルは、きっ、と女性を睨みつけると、くるりと踵を返して走り去ってしまった。
 女性がリフィルの背中を見つめながら、小首を傾げた。涙でいっぱいだった、リフィルの瞳を信じられないもののように思い出しているのかも知れない。
 後をすぐさま追ったのは、ジーニアスだった。彼は、母の方をちらりと一瞥すると、迷わず姉を追ったのだった。
 皆一瞬、どうしよう、と視線を見交わしたが、次々にリフィルとジーニアスを追って行った。
 女性は、くるくる変わる展開が理解出来ずに、人形の『リフィル』を抱いてきょとんとしていた。リフィルを唯一追わなかったゼロスが、女性を静かに見つめていたが、彼女はそんなことは意に介していないようだった。
「よしよし、いい子ね、リフィル。恐いお姉さんはいなくなっちゃったから、もう大丈夫よ」
 自然と、眉の間に皺が寄った。


 似過ぎてる。


 自分が手放した娘の顔も忘れて、人形をあやす女が目に入る。
 その輪郭に、もう一人の『母』の姿が映る。
 彼自身の母の。


 いつもいつも、笑顔を絶やさない人だった。
 仕事から帰ってきた父の世話を甲斐甲斐しくする姿をよく見ていた。
 屋敷の者にも優しく、人々にも好かれていた。
 そして、自分も彼女が大好きだった。




「…リフィル」
 浮島の一番端に、膝を抱えているリフィルの背に声を掛ける。目の前はもう、空の真ん中。ぽっかり丸い雲がガラスのような青空に漂っている。
 リフィルの膝の上には、さっき受け取ったばかりの古ぼけた日記が載せられていた。
 足の下の芝生が、風に揺れてさらっと曲線を描く。
「……」
 返事がないのも、ゼロスは別に気にしない。すとん、と隣に無造作に座る。
「いい天気だなぁ…」
 地上より遥か上空にあるエグザイアは天気の影響を受けやすいが、今は気持ちの良い程の快晴だった。ゼロスの長い髪が風になびいて、俯くリフィルの横顔にかかる。リフィルはほんの少し顔を上げ、その髪を払った。
 ゼロスは微笑むと、髪を払ったリフィルの頬にそっと触れる。
「…リフィルがさ、シルヴァラントに流れてきた日、どんな天気だった?」
「……降るような、星空だったわ」
 かき上げた銀髪の下の、整った横顔には、一筋涙の痕。彼にはそれを隠そうとしない彼女が愛おしかった。
「異界の扉が、はっきり見える程だった。私はジーニアスを抱いて柱の中心に立って…」
 そこまで言って、リフィルは言葉を切った。草が鳴る。その葉擦れの音で、少し気持ちが休まったようだ。再び、リフィルは口を開く。
「…母は、ずっと私の肩を抱いていた。異界の扉が開く瞬間まで。
 けれど、異界の扉が開いた瞬間、母は私たちをそこに突き入れた。…と言っても、長い間異界の扉のことなんて知らなかったから、ただ突き飛ばされただけなんだと思っていたけれど」
「…そうか」
 淡々と、リフィルは言葉を紡ぐ。ゼロスも突っ込むようなことは聞かなかった。
「恨んだわ。何も言わずに私たちを捨てたことを。ハーフエルフに生まれたことを」


 敷き詰められた道を踏み外してはいけない。その道は、エルフ、もしくは人間のもの。それ以外の者は歩むことが出来ないから。道の外を歩けば、ハーフエルフだとわかってしまうから。
 だから、わからないように。素知らぬ顔で道の上を歩く。堂々と己を偽りながら。


 唇をかんで、リフィルが呟く。勿忘草色の瞳に浮かぶのは、涙ではなくて哀しみ。そして、哀しみよりも深い、傷つけられた愛情。
「でも、どんな気持ちよりも強かったのは、信じられない、ってことだったわ。…母が、私たちを捨てるなんて」








 天才、そう呼ばれなくなったのはいつの頃からであろうか。
 たぶん、母が裏切りの台詞を吐いてから。
 本当は愛されてなどいなかったのだと思ってから。


「俺の場合は、雪だった。視界が、全部覆われてしまうような、…真っ白な」
 今でも忘れることなど出来ない。瞼を閉じると浮かび上がる、永遠の時。その光景の中では、自分は絶対にあの時のままの子供。世界が霞むような雪の中、降るのは血か、涙か。


 言葉を切ったゼロスを、リフィルが視線で促す。続きは?、と。特に興味があるような表情はしていないが聞いてくれるつもりはあるらしい。
「メルトキオの俺ん家の肖像画、覚えてるか?」
 リフィルの頬から手を離し、代わりに彼女の瞳をとらえてゼロスが言った。リフィルは、半ばどうでも良さそうな様子で首を縦に振る。
「あれ、うちのおふくろなんだ」
「…そう言えば、あなたの両親には会った事ないわね」
「そりゃ当たり前だ。親父は五年前病死した。…おふくろは、12年近く前に死んだ。…殺されたんだ」
「…殺され、た?」
 一瞬、言葉の意味が理解出来ずに、リフィルはぼんやり尋ね返す。
「俺の代わりに、殺されたんだ」


 己の吐いた言葉が、己自身を傷つける。
 でも、俺が誰かにこの事を話せたという事実は、本当はとても凄いことなんだぜ?
 たとえ、君がそうとは知らなくたって。


「…そう。それで?」
 涙でかゆくなった目元をこすりながら、リフィルが素っ気無く言う。その気遣いがゼロスにはとてもありがたかった。無論、リフィルならそう返してくれると思って話をしたというのもあるのだが。
「おふくろを殺した奴が、本当に狙っていたのは、俺だった。だが、狙いははずれた。魔法は俺をはずれておふくろに直撃した」
「魔法…。とすると、エルフ?」
「…いいや。ハーフエルフ。…セレスの母親だよ」
 思いの外、あっさりと言えた事に、胸を撫で下ろす。あれだけわだかまっていたことなのに。
 リフィルは眉根を寄せると、本当に小さく、そう、と呟いた。そして、意外なことに、くすりと忍び笑いを漏らしたのだった。驚いて彼女の方を見るゼロスと視線が合うと、リフィルはさらにくすくす笑いながら答えた。
「こういう時、どういう風に接するべきなのか、非常に悩むわね。…さっきの私もそうだったでしょう?」
「まあな」
 つられてゼロスも小さく笑う。小さいけれども本当の笑み。
 口を開く瞬間、ふいに真顔になってリフィルが言った。
「…セレスのこと、嫌い?」
「…いいや」
「…それじゃあ、私のことは?」
「まさか」
 何気ない口調だが、冗談ではなさそうだった。ゼロスは、失敬だ、と言わんばかりに彼女を軽く睨む。
「ごめんなさい。…なら、もういいのね」
「当たり前だぜ。リフィルがハーフエルフなのに、他のハーフエルフにぐだぐだ言ってたってどうしようもないだろ?」
「それはそうだわね」
 二人はどちらからともなく顔を見合わせ、笑った。声を上げて、明るく。
 笑い声が止んだ後の、間を破ったのは、真面目な顔に戻ったゼロスだった。
「…おふくろが死ぬ間際、俺に言った言葉が、ずっと気になってたんだ」
 どこからかてんとう虫が飛んで来て、母の日記を持つ、リフィルの細い指に止まった。微かに笑んで、それを見つめるリフィルを横目に見、自然に次の言葉が出る。
「『お前なんか、生むんじゃなかった』って」
 弾かれたようにリフィルが顔を上げる。反動で、てんとう虫が飛び去った。
 てんとう虫が消えた宙を何となく見つめたまま、変わらない声の調子でゼロスは続けた。
「信じられなかった。…おふくろは、本当に優しい人で、いつもいつも俺の事を褒めてくれたし、可愛がってもくれたし、よく人に自慢もしてくれたから」
「…ええ」
「俺はもちろんおふくろが大好きだったし、おふくろも俺のことを愛してくれてるんだって疑いもしていなかった」


 それ以来、決して「いい子」にならないように気をつけてきた。
 敷き詰められた道に乗らないように、必ず一歩道を踏み外した。
 誰にも心から褒められないように。心から愛されないように。
 失うことが恐いから。
 獅子は鋭い牙と本能を隠し、日向で丸まる猫を装った。


「…嫌ね」
 話を聞きながら、ぼんやりと空を見ていたリフィルは、一言そう呟いた。
「何が?」
「…まるで鏡を見ている気分だからよ」
「…うん」
 苦笑し、ゼロスは草の上のリフィルの手に、自分の手を重ねた。
 普段はひんやりしているけれど、暖かいし、時にはとても熱い、大切な手に。
「…だけど、リフィルのおふくろさんは、結局君を捨てた訳じゃなかった。
 だからさ、俺も、もう一度おふくろのこと信じてみようと思って」
 一回り大きい手が、きゅっとリフィルの手を握る。その言葉を言う勇気を集めているかのように。
「これだけ似てる、君のおふくろさんが君を確かに愛していたんだから。俺のおふくろだって、…もしかしたら、さ」
「…ええ。大丈夫よ、絶対」
 言って、リフィルは大輪の花が咲き誇るように微笑んだ。


「それにしても、どっちが慰められてたんだかわからないわ」
「俺は慰めじゃなくて、おめでとう、を言いに来たんだけど?」
 目配せして、リフィルの母の日記を示すと、彼女はそれをちらっと見て照れたように肩をすくめた。
「…ま、そうよね。確かに嬉しいことだもの。…少し、戸惑ってしまったけれど」
 立ち上がって伸びをし、リフィルはさっぱりした表情で立ち上がった。首を回すリフィルの纏う雰囲気は、まだ少し硬いけれど、彼女ならもう平気だろう。
 ゼロスが惚れこんだほど、気の強い女性だ。


「…おふくろが、残した手紙があるんだ。…俺宛の」
 一人ごちて、ゼロスはリフィルを見上げた。視線が交じり合う。彼女は微笑んでいる。確信に満ちた強い光を瞳の内に抱いて。
「今度、メルトキオに行ったら、一緒に見て欲しい」



 もう、道を踏み外すことは恐くない。
 もう、道の上に乗ることは恐くない。
 自分を偽ることは、もう止めたから。


 ただ、彼女が過去を振り切った場に、自分が居たように、自分が過去を振り切る場に、彼女に居て欲しいだけ。



「…勿論よ」
 当たり前だと言わんばかりの笑顔で、リフィルが応える。
 青空と同じ色の勿忘草の瞳が、優しく細められていた。












 やだなー、いつも以上に支離滅裂ですがな(苦笑)
 難産で参りました…。どうしてこんなにまとまらんのでしょう(泣)
 書きたい内容を詰め込みすぎるのがいかんのかしら、やっぱり。

 先生もゼロスも、持ってる才能を余すところなく発揮したら、相当凄い人だと思うのです。
 でも、先生はハーフエルフだとばれないために、ひそやかに暮らしたいと思っていただろうし、ゼ
 ロスはおべっかしか使わない人の中で「いい子」になんかなりたくなかった。
 それを克服出来たのは、やっぱりロイドの生き方の影響だと思うし、そうであって欲しい。
 でも同時に、お互いの存在が与えた気持ちがあってもいいかなぁ、なんて。妄想したのでした(笑)

 ちなみに、オンライン=道の上、と強引に解釈(大笑)
2004.9.12