虹の予感





 思い返せば、かなりの曇り空。どうして傘を持ってこなかったのかも不思議なくらい。
 ざあざあと止まぬ雨と、灰色の空を見上げながら溜め息をついた。





 道具屋の軒先には、他にも数人が雨宿りをしていた。
 今買った紙袋を濡らさないように庇いながら軒から頭を出し、ジーニアスは銀色の髪をふるふるっと揺らした。
「全然ダメだね…。まったく止みそうにないよ」
 そう言う弟の言葉に溜め息で頷き、リフィルも灰色の空から、道に目を向けた。地面が白く泡立つ程に激しく降り注ぐ雨。あちこちで、慌てて軒先に避難する声が聞こえる。けれど、雨はまるで滝の中に立っているような爆音で、周囲の音は響きしか聞き取れなかった。隣に立つジーニアスが、肩や髪を濡らした雨を払っているのを見て、無言でハンカチを差し出してやる。
 礼を言って受け取ったジーニアスが体を拭き、ハンカチを返してきても雨の勢いは一向に弱まる気配はなかった。
「止まないね」
「夕立だろうし、このまま一晩中、ってことはないわよ」
 銀髪の姉弟は、軒から溢れる鉄砲水に目を向けながらそう言った。
「…たぶんね」
 雨が止んだあと、宿に帰り着けるかどうかはわからないが。
 リフィルの呟きは、雨音に紛れて消えた。


 しばらく互いに口をつぐみ、雨音と人々の喧騒ばかりが耳につく。まだ午後が早いくらいなのに、辺りは相当薄暗い。薄墨を溶かしたように灰色をした空気が、肌を同じ色に染める。
 何度目かに、リフィルが顔をわずかに上向けて空の様子を見ると、横でジーニアスがくすりと笑う声がした。
「姉さん、夕立でしょ?すぐに止むよ」
「…そうよね」
 大人びた弟の口調に顔を綻ばせ、リフィルは腕の中の荷物を抱え直した。右手には、ジーニアスと同様、道具屋での買い物が入った紙袋を抱えて。左手には、古書店で手に入れたばかりの研究書。正直に言って、道具はともかく本を濡らすことだけは避けたかった。
 物凄い湿気に本が湿ることを心配していると、軒下で暗い空に手を差し延べていたジーニアスが、くるっと振り返った。
「…姉さん、思い出さない?二人で旅してた時のこと」
「ええ…そうね。懐かしいわ…。少なくとも五年前にはなるわね」
「イセリアに行く前だもんね。懐かしいや…」
 各地を転々として暮らしていた記憶は、ジーニアスにとっては朧気だ。五年前にイセリアに来る前に住んでいた町も、比較的長く住んでいたし、それより前はジーニアスは子供すぎてそれほど覚えていない。しかも、定住も出来ずに各地を流れ歩いていた頃の話を、リフィルがほとんどしないからだ。イセリアの前に住んでいた町を逃げるように後にした記憶が、ジーニアスに深い影を落としているとリフィルは知っているからだ。ジーニアスは姉の気遣いが嬉しい反面、そんなに自分は頼りないかと悔しくもなる。確かに、イセリアの前に住んでいた町を後にした時の気持ちは、今も忘れられない。悔しさとか、怒りとかを通り越して、ハーフエルフとして生きることとはこのような仕打ちにも耐えていかねばならないことなのだと思い知らされた。
「あの時も、木の下で少し雨宿りしてたらすぐに止んだし。大丈夫だよ」
 永遠に降り続くかに思えたハーフエルフへの冷たい雨も、今は弱まりつつある。そして、雨の中、傘を差し出してくれる人も。
「…そうね」
 身も凍るような雨の中、一人で震えているハーフエルフの少女は、もういない。塞がっている両手の代わりに、出来る限りの暖かい微笑みを弟に返すと、彼はくすぐったそうに笑った。




 屋根に当たる雨の音が、ほんの少し弱くなってきた。灰色に塗り固められた空の向こうが、一部だけ明るく綻んで来る。
「もうすぐ止むかな」
 顔を見合わせて頷き合った直後、土砂降りの雨すら破る明るい声が唐突に響いた。
「うっわー、結構止んできちゃったぜ」
 低いが、まだわずかに幼さを含んだ少年の声がつまらなそうに言うと。
「そう言うなよハニー。センセとガキがどっかで雨に濡れて震えてるかも知れないんだぜー」
 艶やかなテナーが答えた。台詞はおちゃらけているが、低くてとても耳障りの良い声をしている。
「…お前さあ、『ハニー』って呼ぶのは先生だけにしとけよな。変な誤解されるだろ」
 最初の少年の声がげんなりとトーンを落としたのを聞いて、リフィルとジーニアスは堪らず笑い出した。通り過ぎようとしていた二人組がびっくりして足を止めると、銀髪の姉弟が雨の流れる道具屋の軒下で、並んで腹を抱えている。
「ふ、二人とも信じらんないー!ほんとにドジなんだからな、もう!」
 爆笑混じりでジーニアスが言っても。その通りなので反論出来ないロイドとゼロスは、ただ、決まり悪そうな顔をして傘を差し出した。
 雨は小降りになってきていた。




 最初に迎えに行こう、って言ったのゼロスなんだぜ。
 明るく、勿論悪気などこれっぽっちもなく言ったロイドの頭を、ゼロスが開いた傘の先で突っついた。前には、ロイドとジーニアスが並び、後ろにはゼロスとリフィルが並んで歩いている。リフィルが抱えていた紙袋を代わりに持ったゼロスが、苦々しげに舌を打った。
「くっそー、ロイドのやつ。こういうのは言わないからこそ格好良いんだっつーのによ」
 ゼロスが持っている紙袋の方が、リフィルが持っている本より明らかに軽いと思うのだが、リフィルは大事な大事な本を手放そうとはしなかった。傘を差し出し、荷物持つよ、というゼロスに笑顔で紙袋を押し付けて。
 リフィルは、左手でしっかり本を抱えている。細い腕は、雪のように白くて頼りないように見えるけれど、あの分厚い本を片手で軽々抱えるくらいだ。加えて、しょっちゅうはたかれているゼロスには、あの細腕の強さはよくわかる。しゃべらなれければたおやかな外見なのに。空色の傘を右肩に掛ける横顔がうきうきしているのを見て、一人でに笑みがこみ上げてきた。




「もう、だいぶ止んできたな」
「せっかく迎えに来てもらったのに、悪いわね」
 傘を少し上げ、リフィルが言った。傘をたたく雨の音は相変わらずだが、さっきまでのように押し潰すような勢いはないし、随分優しい音にもなっている。傘越しに、ゼロスが小さく笑ったのがわかった。柔らかい囁きが耳朶に届く。
「いいってことよー。俺様もちょうど散歩したいって思ってたとこだし?」
「あんな雨の中?」
 意外と本気で言っているらしいゼロスを見上げて、リフィルは呆れる。しかし、そんな視線にめげるはずもないのがゼロスだ。かなり明るくなってきた空を傘の端から仰いで、にかっと笑った。道路の半分を塞いでいる水溜まりに、足先をちょっぴり浸しながら歩いているのもわざとかと思ってしまう。
「…すっごく意外だわ」
「惚れ直したー?」
「どうしてそうなるの」
「ちぇー」
 全然残念がっていない文句には騙されない。その拗ねっぷりのあまりの幼さに、リフィルは小さく吹き出した。
「お、上がったか?」
 前を歩いていたロイドとジーニアスが傘を外して空を見上げる。つい数分前までは灰色一色で、覆い被さらんばかりに厚かった雲が、今はかなり薄くなっている。灰色の雲を洗い流したように、真っ青な空が広がっていく。灰色の空気も、顔を覗かせた太陽の光に負けてあっという間に消えていく。
「うわー、憎いぐらいに良い天気だよ」
 水滴を振り払って傘を畳み、ジーニアスが言った。まったく、夕立の間の雨の凄さ、信じられないくらいの暗さに比べるとなんだか夢でも見ていたような気がして来る。
 強い土の匂いが、鼻をくすぐった。
「邪魔でしょ。傘持ちますよ?」
 傘を畳んだリフィルに、ゼロスは手を出して言った。一瞬目を見開き、リフィルは破顔する。
「何だか今日の貴方は優しすぎて怖いわね」
「失敬な。俺様はいつでも紳士ですってば」
「まぁ。冗談は休み休み言いなさいな」
 すっかり晴れた空に加えて、こうやって何気なく交わす軽口も楽しいものだ。リフィルの傘と自分の傘をまとめて持つと、足取りも軽い。そんなゼロスの様子を横目で眺めて、リフィルの両の瞳を眇める。こんなに浮かれているゼロスを見るのは、初めてかも知れなかった。
「雨の日好きなの?」
 と、小首を傾げて訊ねれば。
「うーん、雨っていうより夕立かな」
「そう?濡れるし、足止めされるし。どっちかっていうと面倒じゃなくて?」
 至極まともな意見に、ゼロスは大きく頷く。
「確かに。そりゃあそうだけどな。俺様、その後が好きなのよ」
「その後?」
 すう、とゼロスは手袋の指を持ち上げると、ぴんと天を指し示した。
「そろそろ出てるんじゃない?」




 その指につられて、視線を上げると。
 からりと晴れた空は掃いたように綺麗で、遠くの方に浮かぶ灰色の雲が刻一刻と薄れていく。
 そして、真っ青な天を分けるように架かっているのは、七色の橋。




 思わず立ち止まって空を見上げるリフィルに、先を歩いていたロイドとジーニアスも歩を緩める。一緒に空を仰いだお子様二人は、揃って歓喜の声を上げた。口を全開にして、間抜けな顔をしながら騒ぐ二人を後ろで見ながら、リフィルはくすりと笑みを漏らした。
「…綺麗ね」
「でしょ?」
 まるで、自分の功績だと言わんばかりの態度で、ゼロスが笑った。腰に手をあて、思いっきり胸を張って、大きく深呼吸をして。ぱちゃ、と水溜りを越えて雨上がりの空の下に一歩踏み出す。
「俺様、風流とかそういうのには興味ないけど、虹は好きだぜ」
「へぇ。貴方がそういうの好きって珍しいわね」
「あはは。やっぱり?」
「自分で言ってて哀しくなくて?」
 水溜りを越えてスキップしつつ、ロイドとジーニアスが駆けて行く。
「それじゃあ混じってくれば?」
 ゼロスを横目で見て、リフィルは悪戯っぽく笑う。だがこればかりは、流石のゼロスも苦笑してしまう。
「そりゃないでしょうよ」
「だって、好きなのでしょう?」
 つん、と顔を上向けて言うリフィルの表情は、無駄に明るい。
「ひどーい」
 高い声を上げ頬を膨らませたゼロスだが、怒っていないのは確実だった。からからと、雨雲を吹き飛ばさんばかりに笑う。




「何で虹が好きなの?」
 宿が見えてきた頃、木立の中から天へ伸びる虹を見上げて、リフィルが訊ねた。
「んー…」
 一瞬口ごもり、ゼロスは隣のリフィルを見下ろした。銀髪のハーフエルフの女史が、挑むような視線で見てくるのを、真っ直ぐに受け止める。
「…笑うなよ?」
 告げる蒼い目は真剣そのもので。リフィルは益々笑いを堪えなければならなかった。軽やかに水溜りを越え、くるりとローブを返して誤魔化すと、真面目な顔を作って振り返る。
「笑わないわよ」
 自信たっぷりに応えるが、たぶんね、と心の中で付け足すのは忘れない。
「…ガキの頃さ。親父に話してもらったんだよ」
 空に架かる虹の生まれる場所は、人の辿り着けぬ場所にあるという。どれほど追い求めても、決して出会えぬ場所であると。
「で、虹の生えてる場所の下には、両手に抱えきれないくらいの財宝があるって、親父が面白おかしく話してくれてさ。ピュアだったあの頃の俺様は、本気で信じてたもんさ。…結構好きな話だったな」
 瞳の先には、遠い昔の思い出。雨のぶつかる窓を眺めながら、父の膝で聞いた夢物語。夢中になって聞いているうちに、灰色の空から一条の光が差して来る。その向こうには真っ青な青空。
 そして、さらにその先の空には。





 虹の生えてる場所には、そりゃあすごいお宝が埋まってるんだよ。
 いつか、一緒に見つけに行こうか。




「…そう」
 静かに、リフィルが言った。そのリフィルの声に、虹から顔を下ろしたゼロスはぽつりと呟く。
「…笑わないって言ったでしょーが」
「…あら、わかっちゃった?」
 水溜り越しに立つリフィルは、ふるふると肩を震わせていて。顔を俯き加減にして隠そうとしているけれど、笑いを堪えているのは一目瞭然だ。
 ゼロスは一度肩を竦めると、不意に表情を崩した。瞳を細め、にやり、と口の端を上げる。大股でひらりと水溜りを越え、風のようにリフィルの隣に着地して。未だにくすくすと笑っているリフィルを、ごくごく至近距離で見下ろす。




「?」
 この至近距離に、リフィルが一瞬まばたきした。
 その時を、逃さずに。傘を持っていない左手で、リフィルの肩を後ろから抱くように引き寄せ。
 見開かれた勿忘草色の瞳を掠め、その横顔に隠された細い耳に素早く囁きを落とす。
 耳朶に落ちた言葉を理解した途端。勿忘草の瞳は最大限に広がった。
「っ…!」
 一気に、顔面まで熱が上ってくる。同時に、分厚い研究書を抱えた腕が自然と動いた。肩を抱く手を振り解き、その凶器を振り下ろそうとする。が、熱を感じた分だけワンテンポ出遅れる。角が当たれば相当な攻撃力があるだろう研究書をひらりと避け、ゼロスは宿の方へ身を躍らせていた。
「これでおあいこでしょ?」
 笑わないって言ったのに、笑ったから。
「なっ…」
 気持ちのいい笑顔を送るゼロスに、リフィルはもう一度肩を震わせた。絶対に、最初からこうするつもりだったに違いない。まんまと翻弄されたことが悔しくて、怒りで身体が震えてしまう。
 そんなリフィルの心中など十分過ぎるくらいわかっているゼロスは、満面の笑顔を湛えて何事もなかったように明るく続けた。
「さぁーてと、帰りますかね。リフィルさま♪」
 ぷちん。
 堪忍袋の緒が切れる音が、頭の片隅で微かに響く。
「…ゼロスッ! 往来で、馬鹿なことを言うんじゃなくてよっ!」
「往来じゃないならいくら言ってもイイ?」
「お黙りなさいっ!!」
 へらへら笑うゼロスに、今にも本を投げつけんばかりの勢いで、リフィルが叫ぶ。顔の火照りは最高潮。耳まで赤いだろうと、自分でもわかる。
 熱に潤んだ瞳で睨んでくる視線をふらりと受け流し、ゼロスは腕を組んで悠然と立つと、しみじみと首肯して。
「怒るハニーも最高に美人だと思うよ、俺様」
 仕舞いにこんな台詞も吐けば。
 とうとう手に持っていた研究書を力の限り投げつけた。






 予感がしたのさ。
 夕立が、地面を波打つように叩いているのを見た時に。
 これはきっと虹が出る。良いことがあるんじゃないか、ってさ。
 あ、信じてないな?
 だったら、もしも次にこんな夕立が降ったら、また君を迎えに行こう。
 親父の話をする為に。君の可愛い姿を見る為に。





 きっと、今度も同じ、イイ虹が見れるはずさ。













 5555Hitを踏んで下さった、玻璃さまのリクエストでゼロリフィです。
 本当は、「虹の予感」の曲に合わせたストーリーを考えていたのですが、差し上げ物にするには長くなりそうだったので、こうなってしまいました。
 …すみません。コメントし難い代物になってしまいました(汗)
 何だか、「甘いものを書かなきゃ…!」という、謎の使命感に駆られて書いていました。何故でしょう?(苦笑)
 ゼロスが先生に何を言ったのかは、皆様のご想像にお任せしますv
 砂を吐くほど甘く、クサイ台詞を、想像力を駆使して考えて頂ければ嬉しい限りですv(脱兎)

 長々とお待たせしてしまって申し訳ありませんでした。
 少しでもお楽しみ頂ければ幸い…と思いつつ、お気に召しませんでしたら、全力で書き直させて頂く所存です!
 5555Hit、ご来訪ありがとうございました!

2005.7.4