季節はずれの花輪





 しん、と静まり返るような冬の空を一人の男が駆けていた。普段は決してこんなことはしない。けれど、今、彼は物凄く急いでいた。それに、こんな寒い日に空を見上げる人もそうはいまい。
 薄灰色の雲の下を青い軌跡が伸びていった。


 小屋の中は、まるで春のようだった。
 中に入るとまず目につくのは、古木のテーブルだ。灰褐色の肌はどっしりとしていて威厳に溢れ、触れ難い思いさえ感じさせる反面、若い木にはない、暖かさ、人懐こさ、度量の広さを感じる。
 これはこの家に住む一家にとってかけがえのない宝であった。
 テーブルの向こう、左の奥にはぱちぱちと燃える暖炉があり、この季節その火が絶えることはなかった。暖炉の右上部分にはさりげない蔓草模様が描かれたオーブンがある。
 そのオーブンの前で、火加減を真剣になって見ているのが、この家の若奥様であった。亜麻色の巻毛を首の後ろで緩やかな三つ編みに結んで、背中に流している。まだほんの少女と言っても通じそうな小柄な体で、鳶色の瞳が顔の中できらきら光っている。
 彼女は型に入ったスポンジケーキをオーブンに押し込み、額に浮かんだ汗をぐいっとぬぐった。あとは焼上がるのを待つだけ。一仕事を終えた達成感から、満足いっぱいの笑みを浮かべる。
 まだこれから様子を見ながら、ちゃんとしたタイミングで出さないと焦げてしまうが、彼女はケーキ作りを失敗した事がないのが自慢だった。まるで、彼女が開けた瞬間にちょうどよく焼き上がるように、ケーキ自身が気を使っているみたいに。
 今日はまだやることがあるから、そっちに夢中になってケーキを忘れないようにしないと、と心に刻みオーブンの前から立ち上がった。
 随分と外が静かだ、と厚いカーテンをめくって、一瞬びっくりした。
 さっきまで杉の濃緑で埋め尽くされていた窓の外には、うっすらと白いヴェールが掛かったようになっていたのだ。
「どうりで冷えるはずね…」
 ちらりと灰色の空を見上げて、呟く。見慣れた姿はまだ見えない。心配が頭をもたげるが、ここで彼女が出来るのは何もないことを祈るくらいだ。カーテンを閉め、部屋の隅の四角の柵を覗き込む。たくさんの古い裂に包まれた、ふくふくとした赤ん坊が幸せな夢を見ている。口の端がほんの少し持ち上がっているのが、微笑んでいるように見えて、彼女も笑った。小さな小さなもみじの手を指で持ち上げ、柔らかく話しかける。
「パパ、今頃困ってるわね。無事に帰ってこれるといいけど。…あなたも夢の中でいいから、パパの無事を祈ってあげてね」
 寝惚けながら握り返してきた、息子のぷにぷにした指をしばらく撫で、意を決して立ち上がる。  彼女の夫は、街まで買い出しに下りていた。一家が住んでいるのは山に深く入った所なので、たまには街へ降りないと生活必需品にも困る時がある。二日前に家を出た彼は、今日帰って来ると言って行った。彼女は当り前にそれを信じていた。


 子守唄を口ずさみながらクリームを作っていく。時折様子を見る息子は、ぐっすりと気持ち良くお昼寝をしているので、作業に集中出来るのが有り難かった。反対に、窓の外は次第に猛吹雪になっていっていた。木々の間を吹き抜ける、悲鳴のような風がひっきりなしに泣き喚き、小屋の窓をがたがたと揺らす。
 彼はもう街を出ただろうか。いや、出ていたとしてもこの雪の中、立ち往生している可能性だってある。不安ばかりが時とともに大きくなっていく。
 一際大きな突風が窓を揺らした直後、ばたんと重い木の扉が押し開けられた。凍えんばかりの空気が、一瞬にして小屋の温度を数度下げる。だが、彼女が慌てて振り返った時にはもう、扉は閉まり、冷気も吹き込んではいなかった。そして、見慣れた長身がコートに積もった雪を払っていた。 「お帰りなさいっ!」
 泡立て器とクリームの入ったボウルを古木のテーブルに置いたまま、彼女は勢い良く言った。そのまま奥の部屋に駆けて行き、乾いたタオルを持って戻って来る。
 そのタオルを受け取って、彼女の夫は柔らかく微笑した。
「ありがとう。留守中、変わったことはなかったか?」
「ううん、いつも通りよ。ロイドは相変わらず暴れん坊なくらい元気だし、ノイシュは外があんまり寒いものだから部屋の隅でずっと丸まってるわ」
 ころころと笑って、濡れたコートを受け取る。それを暖炉の前の椅子に掛けた。
「あなたは?街で何か良いことあったの?」
 そう無邪気に尋ね返されて、彼は目を瞬かせた。おっとりした、いかにも可愛らしい容貌に反して、彼の妻はいつも鋭い。彼女に言わせれば、彼がわかりやすい態度に出るだけらしいのだが。笑って彼は肯定し、妻を手招きした。
「土産だ」
「お土産?」
 彼が荷物の中から取り出したものに、彼女は面食らった。ふわりと甘い香りが部屋に漂う。
「花…輪?」
 ぽすっと、頭の上に置かれたものを手に取ると、それは薔薇やかすみ草、ガーベラなど色とりどりの花で作られた季節はずれの花輪だった。小さな飾りの林檎を見つけては目を輝かせ、普段このあたりでは咲かない珍しい花を見つけては歓声を上げた。こんな冬の季節に、生花など見れない。花が大好きな彼女には何よりのお土産だった。
 視線は花輪に釘付けなままで、彼女が尋ねた。
「凄い、ありがとう!どうしたの、これ?」
「街に、南からの行商が来ていてな。…お前が喜ぶだろうと思って」
 照れながら言う夫を見上げて、彼女は花輪を自分の頭に載せ、夫の首に背伸びをしながら腕を回した。
「ありがとう!」
 子供のようにはしゃぎながら喜ぶ彼女の姿に、彼は満足してその小さな背を受け止めた。


「そう言えば、何だか甘い香りがするな」
「そうだ、ケーキ!焦げちゃう!」
 小さく叫んで、彼女は慌ててオーブンにすっ飛んでいった。鍋掴みを装着し、オーブンの戸を開ける。途端に、花より甘いケーキの香りが部屋いっぱいに広がった。
「失敗か?」
 後ろから悪戯っぽく覗き込む夫の声に、彼女は振り返って朗らかに言った。
「ほらね♪」

 取り出したケーキは、こんがりきつね色。
 何があっても失敗しない。
 彼女とケーキの相性は最高なのだから。

 ケーキとフラワークラウンの甘い香りをいっぺんに纏い、季節はずれの春の光を浴びたような彼女は、にっこりと夫に会心の微笑を向けたのだった。





季節はずれの花輪


一万打御礼企画第一弾。
クラアンでした。アンナさんを弾けさせるのが楽しくて仕方がありませんでした♪

日頃の感謝を溢れるくらい込めて。
一万打ありがとうございました!

2005.4.1