indio





 私の居場所は、何処にもない。


 ぱっちりと目が覚めた。
 辺りはまだ薄暗かったので、朝ではないことは分かる。しかし、煌々と輝く月の光が出窓から差し込んで来ていて、部屋の中は独特の明るさに包まれていた。白い光に照らされた部屋の中は、何もかもが色を失ったような青白い世界で、まるで時が止まっているようだ。
 ベッドの一つがもっそりと膨らみ、寝ていた影が起き上がった。
 月明りの下に浮かび上がるのは、ねじれた姿。ヒューマでもガジュマでもない者。
 体を起こしてすぐに、ヒルダは帽子に手を伸ばした。彼女はこの頭を見られるのを何より嫌う。野宿の時は、自分の夜番の時しか帽子を外さない。宿に泊まった時は、誰よりも遅く寝て誰よりも早く起きる。それ程までに、他人にはこの姿を見られたくなかった。
 ほんのわずかな酩酊感に眉をひそめる。昨晩、リフトの管理人から貰った酒をユージーンと分けた。旅はまだ終わりではないのだし、程々にとお互いに一杯で我慢したのだが、なかなか強いものだったせいか酔いが回っているようだ。だがあれぐらいの銘酒なら、その酔いの感覚も心地良かった。どっちにしろ、ヒルダはいくら飲んでも二日酔いなどしたことはなかったので、飲むことに関しては深く考えていなかった。
 嫌な夢を見た訳でもないのに、喉が渇いている気がして仕方がない。
 サイドテーブルの上においてあった酒の瓶を片手に、廊下へするりと抜け出した。


 案の定、港には人っ子一人としていなかった。昼間はあんなにうるさいカモメ達もねぐらに帰ったらしく、不思議な程静まり返っている。
 ここも、宿の中と同じように青白い静寂に支配されていた。さらさらと揺れる水面は、満月の光を幾万にも分けてちりばめたように輝き、声なき声で歌っているよう。
 桟橋の端までのんびり歩き、無造作に腰を下ろす。足のすぐ下で、穏やかな海が打ち寄せては消えて行く。

 ここは、何処なのだろう。
 ぼんやり考え、持って来た酒を瓶ごとあおった。
 今まで見て来た外の世界ではない。
 だったら自分はとっくに石を投げられている。
 王の盾でもない。
 あそこはハーフを受け入れてくれたが、「ヒルダ」を受け入れてくれたのではなかった。ただ、未知の力を持つハーフを欲しただけ。

 …では、此処は?

 まるで平気な顔をして、当たり前のように彼女を受け入れて。
 彼らが彼女に望むもの。
 優しく暖かいもの。
 ヒルダが今まで一度も貰った事のなく、また与えた事もない気持ち。
 そんなものを一体どうしろと?

 胸がむかむかして、つい酒を景気良くあおってしまう。
 と。背後から思いもかけず声が掛かった。
「いい加減飲み過ぎじゃねぇ?」
 呆れた声と同時に頭の上から手が伸びた。咄嗟に身を固め、帽子を押さえた。そのせいで気を抜いた酒瓶の方は、あっさりと奪い取られてしまう。
 手の引っ込んだ頭上を、帽子を押さえながら見上げる。酒の瓶を訝しげに眺め回す、満月に照らされた顔とぱっちり目が合った。その、締まりのない顔を見たら、声に驚いた緊張の代わりに、どっと脱力感が込み上げる。
「あんた、何でここに?」
「いや、目が覚めたら誰かが廊下に出る音が聞こえたからさ。気になって、つい追っかけて来ちまった」
 酒の瓶を返すよう手を突き出すと、ティトレイは素直に瓶を返し、その流れのまま、ヒルダの左隣に座った。当然のような顔をしているのがヒルダの癇に触った。奪い返した酒を、思いっきりらっぱ飲みする。
「…後を追けるなんていい趣味してるじゃない」
 頭に血が昇っているのを感じながらも、ヒルダは苛々と吐き捨てた。左に座るティトレイと壁を作るように、無意識のうちに左手が帽子の端をぎゅっと掴む。
「…お前、ほんっと口が減らないのな」
 必要以上にきつくなった言葉に、ティトレイは傷ついたようだった。呆れ果てた口調の裏に、思わぬ攻撃に驚く顔が見える。
 決して目を合わせないつもりだったのに、ちらっとティトレイを盗み見てしまったことをヒルダはひたすら後悔した。

 あんな傷ついた顔、見たくなんてなかった。
 そして、そんな風に思った自分に、さらにショックを受ける。

 動揺を悟られないよう、自然と突っぱねるような物言いになった。
「大きなお世話よ」
 つん、と角を立たせるヒルダから、ティトレイはふいっと視線を離した。
「…俺、さ。ベランダから下を歩いてるヒルダを見たら、何か凄く不安になったんだ」
 いつもの額飾りを外したティトレイは、それだけで別人のようだった。俯き加減に水面を見つめ、じっ、と耐えるように呟く。
「このまま、何処かに行っちまうんじゃないかって」


 見透かされた言葉に、返答が詰まった。
「…どうしてよ」
 頑ななミリッツァの言葉が脳裏に蘇る。
 ハーフの居場所は、王の盾にしかないのだと。
 自分の居場所はそこなのだと。
 その言葉は、何よりも、どんな力よりも強く、ヒルダの心を揺さぶる。


 そんな気持ちをさらに揺らすように、もう一つの声が響く。
「今日、ミリッツァ達に会ってからずっと元気なかったから。マオもアニーも心配してたぜ?」

 だが、優しく確かなものは胸の中から離れない。どんなに足掻いても、忘れようとしても、なお消えずに輝く光。
 寄せてくれる気持ちに抗う必要などあるだろうか。
 ただ素直に受け止めて、抱き締めて。
 そうしても駄目な理由などありはしまい?
 そう囁く声は、自分のもの?
「私、は…」

「なあ。勿論、行かないよな?」

 王の盾にはミリッツァがいる。
 ともに育ち、同じ境遇を抱え、誰より近くで生きてきた存在が。
 でも、此処には。
 彼女を彼女と認め、ハーフでも混ざり物でもなく、「ヒルダ」を見てくれる人々がいるではないか。


 ヒルダは唇を噛み締めると、ぱっと立ち上がった。彼女の動きに合わせてティトレイの視線が移動する。
「なあ、ヒルダ…」
「あげる」
 不安げな顔のティトレイに、残り一口ほどの酒の瓶を押し付ける。断ることも出来ずに瓶を受け取ったティトレイは、慌てて身を翻し、ヒルダの腕を掴んだ。
「待てって」
 真剣な顔のティトレイと、視線が交わる。
 その時、ぴりっと胸に走ったものは、確かな過去への思いか、不確かな未来への恐れか。
「ここがお前の…」
「私…っ」
 言い掛けた言葉を、腕を振り払うと同時に半ばで断ち切る。
「…もう寝るわ」
 自分の行動に一瞬戸惑ったものの、ヒルダは唇を噛み締め、踵を返して走り出した。


 その先まで聞いては駄目だ。
 きっと自分は否定出来ないから。
 失うのが怖くて一歩を踏み出せないのに、本当はその中に入りたいと願っているのだと認めてしまうから。
 ここがあんまり心地良すぎるから。
 不確かな未来に、99%の絶望と1%の希望が隠れているのなら、きっと確かな過去を選ぶだろう。
 この心地良い場所に慣れきってしまう前に。
 たとえ、その過去がどんなものだとしても。
 99%確実な絶望を手にするよりは。


 ヒルダの姿が宿屋の中に入ったのを見届けて、ティトレイは肩を落とした。言いたいことは山ほどあったのに、その半分も伝えられていない。
 特に、一番重要なことも。
「…ここが、お前の居場所じゃ駄目なのかよ」
 頬杖をついて、夜の海を眺める。月明かりが水面いっぱいに零れて、星屑の海に揺れている。押し付けられた瓶を所在無く揺らし、ぽつりと呟いた。少なくともここには、今ヒルダの周りには、彼女と世界の間を遮る偏見も憎しみもないのに。


 彼女が一言望めば、そこは彼女の生きる場所となるのに。


 月明かりにくっきり染め抜かれた影と、月色の光が照らす横顔に苦悩が降りた。
「これ、どうしろって言うんだよ」
 ヒルダが直接あおった酒の瓶を、どうすることも出来ずに持ち、ティトレイは海に背を向けた。




 水面は揺れる。
 きらきらきらきら、声なき声で歌いながら。
 心の波を、その水に託し、青く静かに燦然と瞬いて。


 きらきら、きらきら。
 揺れていた。












ラブなティトヒルを目指したのではないけど、やっぱりこういう時にヒルダさんに構うのはティトレイが良いですよねぇ、と(笑)
一部が終わる頃までは、ヒルダさんが仲間達との間に境界線を引いてるよなぁ、と思い、こんな感じに。
どうやって入っていいのかわからなくて、後で失うのが恐くて。
そしてこの後、バルカに行って、ジベールさん家に残されたティトレイとヒルダの距離は、一歩縮むのです(1周目も2周目も、二人を洞窟に連れて行ったくせに/笑)
段々シリーズ化していきますね(え)
2005.2.9