貴方の笑顔が消えることのないように
旅立ちには、良い朝だった。
耳を撫ぜる波の音。
遠く微かな市場のざわめき。暖炉から立ち上ぼる煙に、道路を掃く人々。交わされる挨拶はゆったりしていて、いつまでも耳の中で反芻される。そんな、穏やかな人々の生活の気配が、この早朝の街には満ち溢れていた。
からりと晴れた青空には、薄い雲がひとひら浮いてゆらりゆらりと漂っている。朝の空はまだ色が薄くて、パステルカラーのスカイブルー一色で塗り潰したような青空が、世界をドームのように覆っていた。
ミナールの町の門は、つい数分前に開いたばかりだった。陸路の要所と言うより海路の要所であるミナールでは、港の方が栄えている。門を通る人影は少なかった。
門の前の広場には、若い男女が並んで立っていた。一人は真紅の髪の少年で、もう一人は栗色の髪の少女である。少年は、硬い革のブーツを履いて、重く膨らんだリュックサックを背負っている。それが旅支度であることは一目瞭然だった。厚い生地で作られた空色の服は真新しく、新調したばかりなのだろう。今の空の色とちょうど同じ色をしていて、少年の小柄な体には少し余っているようにも見えた。
一方、隣の少女は少年を見送りに来たのだろう。スカイブルーのブラウスに焦げ茶色のスカートをはいただけの、ラフな格好をしている。細いサンダルを引っ掛けただけの、すらりと伸びる足の白さが、シンプルな服によく映える。
二人は広場の真ん中で、何かを待っているようだった。門は開いたし、少年は見た限りいつでも出発出来るような姿をしている。それでも、少年は門をくぐるでもなく、少女は彼を見送るでもなく、じっと並んで待っていた。
彼らが待っているものはわからないけれど、それは「別離」に思えた。哀しい別れでも、望んだ別れでも、勿論ない。それはきっと先に進むための別れ。
とは言ってみても、少年の旅の連れが来ないのもまた、事実だった。
「遅いね、ユージーン…」
「大方、キュリア先生と長話してるんだよ。アニーのこと宜しくお願いします、ってさ。ユージーン、心配で心配で堪らないみたいだもん」
溜め息と共に市街を見やった少女に、真紅の髪の少年は髪と同じガーネットの瞳を少女に向けて微笑した。
ミナールに、キュリア先生の見習いとして残るアニーを、父代わりのユージーンは非常に心配していた。当たり前だが、彼女が未熟だから心配、ではない。なんとなくわかって頷く彼に、この気持ちは娘を持つ父親になってみないと、本当にはわからないぞ、とユージーンは言った。
別れの挨拶をしに行くと言っていたが、それだけで済むはずもないのは至極当然だった。
「嬉しいけど恥ずかしい…。私だってもう子供じゃないのに」
そう言って口を尖らせる横顔は、やはりまだ少女のもので。少し意味は違うけれど、真紅の髪のマオもユージーンの気持ちはよくわかった。大きなガーネットの瞳をくるりと回して、アニーに笑い掛ける。
「…寂しい?」
「…寂しくない訳ないじゃない」
アニーは、一人の寂しさを見に染みて知っている。特に、その寂しさの後、仲間たちと過ごす日々の賑やかさに慣れてしまったから、余計に辛い。キュリア先生もミーシャもいるのだとわかってはいても、かけがえのない仲間たちと、次々に別れを重ねるのは堪える。
わずかに視線を地に落としたアニーのさらりとした髪に、マオはふわりと微笑んだ。いつもの、弾けるような笑顔ではなく、本当に無意識のうちにつられて微笑んでしまうような笑顔で。
「キュリア先生もミーシャもいるよ」
「…わかってるわよ」
「ペトナジャンカも近いしさ」
「…うん」
「時々は帰って来るよ」
「…当たり前でしょ」
「手紙も送るヨ。アニーが望むんなら、一週間に一度だって、毎日だって送る」
冗談の感じられない真剣な声に顔を上げると、明るい笑顔のマオの目と視線が交わる。やはり、彼の真紅の目はひどく真剣だった。
その眼光の、意外なくらいの鋭さにどきっとしてしまう。無意識に火照った頬を意識すると、更に頭が混乱してしまう。
「や、やだマオ、私もうそんな子供じゃないわよ」
震える声で何とか返答する。しかし、マオの笑顔は揺るがないどころか、そんなアニーの姿を見て、益々楽しそうになっていく。
「でも、それでアニーが笑っててくれるなら。手紙くらいいくらでも書くよ」
満面の笑みで。どんな闇も払う光の炎で、そんな言葉を贈られたら。本当に、何もかもが灰になってしまう。孤独も、寂しさも、辛ささえも。恐いものなど何一つないのだと、喉をつんざく程の大声で叫びたい衝動に駆られる。
ねぇ、逆よ。マオ。
貴方が笑っていてくれるのなら。私もきっと笑っていられる。
俯いた顔に微笑を乗せて、面を上げた。昇ったばかりの太陽が、刻一刻と炎の強さを上げていく。ふわりと漂う光の粒が、並ぶ二人を優しく包む。
「じゃあ。待ってるわね、手紙」
朝日に負けないくらいの眩しい微笑みで、アニーが言った。
「ああ。別に毎日だって構わないわよ?」
そんなことを、そんな笑顔でさらりと言ってくれてしまうなんて。
彼女はどこまでわかっているんだか。マオは、内心でこっそり嘆息する。アニーがこうして、すごく純粋だから。したくない心配までしなくちゃならないっていうのにさ。
「…うん♪期待しててヨ!」
だがマオは、嘆息を表わしはしない。人を引き込む柔らかい笑顔で、アニーに向けて親指を立てた。
そうして、マオは何にも知らないアニーと顔を見合わせ、含み笑いを堪えながら、約束を交わす。十代半ばの二人がそうしている姿は、傍から見ると、まるで仲の良い姉弟のように見えた。通りすがりの老人が、仲睦まじさに表情を綻ばしている。
「待たせたな、マオ、アニー」
そうこうしているうちに、市街にあるキュリア先生の診療所から大柄のガジュマがやってきた。艶やかな黒い毛皮の美しい、しなやかな豹のガジュマは鋭い瞳を目いっぱい下げて息子と娘の下に駆け寄った。
「遅いヨー、ユージーン!」
「すまないな、話が長引いてしまった」
耳の後ろをすまなそうに掻く仕草が妙に笑いを誘う。元々怒っていないマオとアニーは、そんな仕草にころころと笑った。
「まあいいや。アニーとゆっくり話が出来たモン♪」
実はユージーンは、それをわかっていてキュリア先生と長話をしていたのだと、マオは気付いている。だが、アニーも、気を回したユージーンも、そのことに気付いてはいないだろう。快活な声で言って、ぴょこんと跳ねたマオを四つの瞳が優しい視線で見る。
「そうか、良かったな。…では、行くか?」
「うんっ!」
別れは、あっさりしていた。仕事や学校に行く家族を見送るように、いつもどおりの顔で、簡単な挨拶を交わすだけ。
「気をつけてね、二人とも」
「アニーの方こそ、身体に気をつけてな。無理をしてはいかんぞ」
「ハイハイ、わかってます!大丈夫よ、心配しないで」
「たまには帰ってくるからネ!お土産楽しみにしてて」
「うん。待ってるわ」
門の真ん中で、見送るアニーの目の前には二つの背が映る。湿った、冷たい朝の空気の中を旅立とうとしている背。見上げんばかりの黒いガジュマと、自分と同じくらいの、華奢な少年と。古びた袋を提げた背は、近くて遠い。
ちぐはぐな身長の二人は、すたすたと迷いなく外の世界に踏み出した。
少年の空色の衣が、本当に空に溶けてしまうかと思った一瞬。突然、彼がくるりと振り返った。
「手紙、書くから!待っててネ!」
少し離れた距離から、朝霧を突き破って投げられた言葉に。アニーの表情が崩れた。
「…うん。待ってる!」
叫び返して、右腕をぶんぶんっと振ると。相変わらず歩く足は止めないまま、マオも両手を千切れるほどに振り返してくれた。
名残惜しそうに、真紅の髪が揺れる。それでも、マオは再び前を向いた。隣のユージーンが何事か言って、彼を見上げて返事をする。その横顔は、晴れやかだ。
「…待ってる、からね」
朝霧の中に、二人の姿が消えるまで、アニーはずっと佇んでいた。
「…心配か、マオ?」
豹のガジュマが、言葉を綻ばせたのを聞き咎めて、マオは彼をぐいっと見上げた。
「だーいじょうぶ。ちゃあんと手は打ってあるヨ♪」
清楚で優しい雰囲気が、男にもてるなんてアニーはきっと考えたこともないに違いない。今までは、自分もユージーンもヴェイグもティトレイも、おまけにヒルダまでついていて、悪い虫がつかないようにしていたけれど、こう離れてしまってはどんな虫が寄ってくることやら。心配で心配で旅に出るどころではない。
だから、手紙を書くのだ。
一枚の、真っ白な便箋に。溢れる想いを綴って。
一人残った彼女が寂しくないように。笑顔を失わないように。
そして何より、ロクな虫が寄って来ないよう、牽制も込めて。
彼女は、ボクの大切なヒトだからね?
二万打御礼企画お題、4番です。
今回はマオアニですー♪
ネタを捻り出した後、某素敵サイト様で素敵なマオアニの手紙なお話がアップされ、「どうしよう!かぶった!」と思ったものの開き直ってそのまま突き進みました(笑)
離れている間、いかにしてアニーに悪い虫がつかないようにするか頭をひねるマオ少年。不安でしょうねー。すぐ傍にて、追っ払えないですし。
うちのマオは黒いので、報復とか結構ひどいことしてそうです。勿論、笑顔で(笑)
「アニーはボクのだよ」という、彼の分かり易い主張ですv(笑)
これで、悪い虫がつかないといいけどね…(ホロリ)
二万打の御礼をめいっぱい込めましてv
ありがとうございました!
2005.8.5
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