夕波ノクターン





 真夜中に、何故かぱちりと目が覚めた。
 暗い夜空の上に、白く光る線が幾本も走っている。月の出ない静の大地の夜は、地上よりも柔らかい闇に覆われ、手で触れたら、高級なクッションみたいにふわふわした感触がしそうな気がする。その闇は深かったが、新月の日よりは明るく、不思議と怖さは感じなかった。
 背中に感じる砂の心地良さは、土の地面とは比べ物にならないくらい良い。普段の野宿でもこんなところで寝られればいいのに、とセネルは思った。冷たすぎも熱すぎもしないし、土と比べてずっと柔らかい。それを証拠に、ウィルやジェイですらすやすやと気持ち良さそうに寝入っていた。
 寝返りを打って、仰向けに転がり、腕を頭の下で組む。息を吐いて目を閉じると、すぐ近くで波のさざめく声がした。
(…逃げてただけ、か)
 耳の奥に、頬を平手打ちされる音と騎士の強い叫びが蘇る。同時に、頬にひりつく痛みも鮮やかに思い出す。ひっぱたかれた頬に、そろそろと右手を伸ばした。
 確かに、もうずっとずっと逃げ続けていた気がする。
 始めは、己に課せられた任務から。そして、シャーリィを追うヴァーツラフの軍から。
 その次は、自分の過去から。シャーリィと向き合うということは、彼女にすべてを話さなければならないということ。その恐怖から、呆れるくらいあっさりと逃げた。
(絶対怒られるな、ステラに)
 夜空を見ながら、苦笑して思う。
 あどけない子供だったシャーリィとは違い、すべてを見通す強さを持っていたステラ。彼女の強さは、打ち明ける勇気を持てないセネルには必要なものだったから、彼女を失った後も、それに縋って、楽な道を選んだ。自分の、本当の気持ちからも逃げ出して。
 もしも、今ここにステラがいたとしたら。
『いつ私が、あなたに、助けてくれって泣きついたのよ?』
 脳裏の片隅から、彼女のからかい混じりのそんな声が、聴こえた気がした。








『私がこんなに強い力を持っているのは、こんな、ふっとい毛が生えてるみたいな肝っ玉を持ってるのは、きっと、みんな、あの子のためね』
 跳ねるように駆け出して行った妹の背を見て、ステラは歌うように言った。
『太い毛が生えてる肝っ玉って、ステラ…』
 胸を張って言ったステラに、セネルは思わず呆れる。
 確かにシャーリィは、気が弱い。というより、優しすぎる。ずば抜けて強いテルクェスの力を持っているわけでもないし、堂々と人前に立つ性格でもない。メルネスと崇められるには、少し力量不足なのでは、とは思わなくもない。
 それに対してステラが持っているのは、堂々とした、へこたれない性格に、シャーリィが羨むほどのテルクェス。
『だってそうだわ。時折私思うもの。どうしてこんなに、私はなんにも動じないのかしらって』
『嘘言うなよ、しょっちゅう怒るくせに』
『セネルっ!』
 にやにや笑いながら言ったセネルに、ステラは眉をつり上げて彼の頬を軽く叩く。だが、そこには本気の力は籠っていないし、叩いたステラの海色の瞳も笑っていた。
『いつ私が怒ったのよ。シャーリィにもセネルにも優しくしてるじゃない』
『シャーリィが色々言われてるのを聞くと、いつも見境がなくなるだろ』
『だって、それは別だもの』
 両腕を組んで、海色の瞳をぐるりと回し、ステラはきっぱり言い切った。
『みんな、あの子の気持ちなんて考えたこともないんだわ』
 鍛え抜かれた鋼みたいに鋭く、なにもかもを一刀両断するステラの言葉に、セネルは思わず苦笑した。
『ステラにかかると、シャーリィ以外はみんな敵、だな。まるで』
『あらやだ、そんなことないわ。みんな好きよ。ただみんな、あの子の中のメルネスという部分だけを見て、あの子全体を見ようとはしないんだもの』
 ステラは肩をすくめてすっと立ち上がると、切り立った崖の端に立っている、大きな樹に手を掛けた。ここは、いつも三人で座って、飽きずにお喋りしあう、三人だけの特別な場所だ。
 節くれだった木の幹をなぞるように指を沿わせ、ステラは断崖絶壁と、その下に広がる海の前に立った。青とも緑ともつかないマリンブルーに揺れる波が、同じ色のステラの瞳の中でもゆらゆら揺れる。遥か先を見渡す彼女の表情には、静かな覚悟と強さがあって、浮かべた微笑みを見つめたセネルの背筋に、ぞくりと震えが走った。
 こういう表情を浮かべる時の彼女は、震えるほどに美しく、同時に、怯えるほどに盲目だった。
 彼女の声は、彼女の最愛の妹のことを語っているが、その実その向こうの違う何かに向けられていて、そのことに彼女自身が気付いていない。
『ステラはほんと、シャーリィが好きなんだな』
『……そうね』
 ステラは、瞳をすがめて呟いた。
 そんな一言で片付く気持ちではないけれど。あえて、その一言で片付けた。これは、きっと言葉で説明出来るものではないのだ。シャーリィが「祈る人」であるように、ステラもまた背負った名がある。望もうが望むまいが、彼女達にとって、それはなにより生きていることの全て。
『…そうよ、だから私はここにいるの』
 世界でただ一人、滄我に愛され、その声を聞くシャーリィ。だから自分は、そのことでシャーリィが背負うことになる負のものを少しでも受け止め、彼女の本当の声を聞くものになろう。彼女を愛し、守る盾となろう。そう決めていた。
『…セネルがいてくれて良かった』
 そよ風に流されそうな、微かなステラの声にセネルは訝しげに首を傾げる。突き放すような、ほっと溜め息をつくような、意味を図りかねる口調だった。
『私だけじゃ、あの子はあんなに明るくなれなかった。あのままずっと二人きりだったら、私はあの子を今も愛せてたかわからなかった』
『…ステラ?』
『全部、あなたがいてくれたお陰ね』
 いきなりくるりと振り返って、ステラは明るく笑ったけれど、なんだかセネルは釈然としなかった。言われた言葉は嬉しいけれど、意味はさっぱりわかりやしない。
『…時たま、ステラの言ってることがわかんなくなるよ、俺』
『変な意味じゃないわ。セネルが居てくれて、本当に良かったって思ってるだけ』
 困惑したセネルの表情を見て、ステラは瞳を細めて淡く笑った。色々と理屈をつけようとすれば、それこそ理由はなんでもいい。とにかく彼女が、セネルに会えて良かったと思っていることだけは、確かなのだから。
『ステラ…』
『ね、セネル。これからも、ずっと、一緒にいられたらいいわね。私と、シャーリィと、貴方と』
 セネルが隣に並ぶと、ステラはふわりと鮮やかに笑んで、セネルを見上げた。自分を見上げる見慣れた笑顔に、セネルの顔も綻ぶ。
『そうだな。ずっと、三人一緒に。…いられたらいいな』
『うん、そうね』
 はにかみながら答えた少年に、少女の笑顔が眩しかった。








 ステラとシャーリィと。
 この二つの笑顔にどれだけ大きなものを貰ったのか。笑顔と愛しさと優しさとやすらぎと。
 誰かを信じること、慕うこと、慈しむこと、守ること。みんなみんな、彼女達にもらった感情。
 そしてなにより、決意すること。一歩踏み出すこと。二人ともそうして決意して一歩踏み出して、歩き出そうとしていたのに。わかっていないのは、自分一人だけだった。
「…やっぱり俺は、二人がいないと駄目みたいだ」
 手足をバネみたいにしてむくりと背を起こし、ぐるっと周りを見渡す。すぐ右隣にはモーゼスとギートが。左を見るとノーマとグリューネがくっついて寝息を立てている。その向こうに見える黒い背中はクロエだろう。上半身をひねって後ろを見ると、ジェイとモフモフ族の三兄弟のうち、下の二人が団子のように丸まって寝ている。足下の岩陰ではウィルがその岩に寄り掛かりながらこっくりこっくり船を漕いでいた。まるで円陣でも組む様に、繭が幼虫を守る様に。彼の周りに仲間達がごろごろと寝転がっていて、足の踏み場もありゃしない。
 一人で行くなよ。一緒にいたいよ。絶対守るから。
 寄せられるのは、真っ直ぐな感情達。
「…でも、俺もシャーリィも、もう二人っきりじゃない」
 セネルが起き上がった気配に気付いたギートが、ぴくっと耳を立てながら頭を上げてセネルを見た。ばちり、と一人と一匹の視線が交差する。大きな黒い瞳にじっと見つめられて、セネルは困ったように苦笑した。ぱたんぱたんと、モップの先ほどもある尻尾が規則正しく砂浜を叩いていた。
「…ぅあ?ギート?」
 ギートが起き上がった動きに気付いて、ギートの横っ腹に頭を乗せて寝ていたモーゼスが寝起きの声を上げる。濡れた鼻を顔に優しく押しつけられたモーゼスは、無意識のうちにギートの頭をわしゃわしゃっと掻き回しながら、とろんと眠そうな目を開けた。
「なんじゃセの字…、起きとったんか。明日は早いんじゃ、寝ちょった方がええぞ…」
「ああ。ちょっと目が覚めただけだから」
「ほうか。…ならええ。おやすみ…」
 そんなセネルの返事に満足したのか、単純に聞こえていなかったのかはわからないが、モーゼスは寝ぼけた口調の言葉をもごもごと転がすと、そのまま寝返りを打って瞬く間に寝入ってしまった。
(早っ…)
 彼らしい行動についつい口許が綻ぶと、こっちを見ていたギートと目が合う。ぱたん、と尻尾が地面を叩いて、彼は再びあごを砂浜につけて目をつぶってしまったが、その前のほんの一瞬、大きな黒い目がちらりと笑ったような気がした。
「…おやすみ。モーゼス、ギート」
 呟いて、どさりと砂浜に体を投げる。
 両足を思いっきり伸ばして、両手を無造作に投げ出して。聞こえるのは、戦いの音でもあの日の海の音でもなく、幾重にも折り重なった仲間達の寝息。
「だから、安心してくれ。
 …今までありがとな、ステラ」








 ずっと三人一緒にいられたら。
 そう言って笑った後、海を見つめたステラが小さな声を落とした。
『三人一緒、か…』
『え?』
『…でも私は…』
『ステラ?』
 少し強い口調のセネルに名を呼ばれ、ステラははっと無意識に独り言を呟いていたのだと言うことに気付いた。心配そうなセネルの空色の瞳が、ステラの顔を覗き込む。
 そっと伸びた指が、ステラの指先を控え目に掴んだ。
『ううん、何でもないわ』
 安心させるように、からからと笑って首を振ると、金色の髪が陽射しを受けてきらきらと輝く。ステラとシャーリィの髪の色と目の色は、姉妹なのだし良く似ていたが、ステラの方が少し色が濃い。そのステラの髪を日光の下で見ると少し濃い金色が透けて、シャーリィの蜂蜜色の髪とそっくりになる。
 こうして見てみて、彼女達が姉妹なのだな、と実感した。
 とは言っても、たとえ遠目だって、彼女達を間違えはしない自信がセネルにはあったけれど。どんなに似ていたって、ステラはステラ。シャーリィはシャーリィだ。
『あ、シャーリィだわ』
 なおも気遣う言葉を言おうとしたセネルを遮って、ステラが声を上げたもので、セネルはがばっと後ろを振り返った。
 その姿に、ステラは思わず小さく笑ってしまう。セネルが自分のことを異性として慕ってくれていることくらい彼女は重々わかっていたが、同じくらい彼がシャーリィを妹としてでも好きでいることは、一目瞭然だったからだ。
『きっと、もうお昼の時間ね。私、ここを片付けてから行くから、シャーリィと先に行ってて』
『うん、わかった』
 こういうことはいつもの流れなので、セネルは一つ頷くと、道の先に見えた義妹のもとに、一直線に駆けて行く。
 仲良く話しながら歩いて行く二人の姿を見送って、ステラは淡く微笑んだ。
『ずっと、三人一緒か…』
 彼女の誠名は「導きの星」。未来を見通す力まではなくとも、僅かに未来を感じることは出来る。
『…離れたくないわね』
 でも。
 これから先の未来で、セネルが辛い顔をすることなんてなくて、シャーリィが自分の幸せのために生きられるようになるなら。自分はきっと、それでいい。






『シャーリィのこと、信じてあげてね、セネル。
 セネルのこと、受け入れてあげてね、シャーリィ』
 愛しい愛しい家族達。たとえ別れる時が来ても、その想いだけは変わらない。
 不器用な妹と友人が、共に相手を理解して生きることが出来るよう。
 ステラは一人、海に向かって深い祈りを捧げた。












 書き終わってから思う、一番書いててテンションが高かった一瞬は、間違いなく寝起きのモーすけとギーとんを書いてた時だなと思ったり(笑)
 脳内で何かが弾けた感じ(笑)

 でも、セネ太郎の周りに群がって寝る皆は可愛くてしょーがないな、こいつら!とメロメロになってました(笑)でもやりかねない気がするんだ。特にモーすけとギーとんが。
 爆裂シスコンお姉様ステラが極まって参りました。彼女はもちろん、この先何が起こるかなんて知らない訳ですが、これくらい強い人なんだろうと思います。それでこそセネシャリの間に立つお方ですもの。
 5章以降のセネシャリの確執を、一番悲しんでたのは、200%ステラでしょうねー。
2006.6.21