ふたり





 きりりと身の凍るような真っ暗な冬の海を、人々は静寂の中、見つめていた。
 声一つ漏らさずにじっと立ち尽くしている大人達に混じって、ステラは寒さのあまりにがちがち言っている歯の根を黙らせるのに悪戦苦闘していた。岸壁の上を吹き荒ぶ、雪混じりの風が彼女の小さな全身にも容赦なく吹き付けて来る。耳元でぴゅーぴゅー叫ぶのは、風と言うより氷の息だった。
 水の民は、一年の終わりに、村の中にある海を望める祭壇で、魂送りの儀式を行う。一年のうちに死んだ水の民の魂がこの日、海面に昇って来て、青白い炎となって姿を見せ、一族に最後の別れを告げるのである。
 魂送りの儀式に参加出来るのは、テルクェスを出すことの出来る者だけと決まっていた。子供は、居残りを命じられた数人の大人と村に残っている。魂送りの儀式に参加出来る、というのは十代前半の子供たちにとっては大変な自慢であり、逆に参加出来ない、というのは大変な屈辱でもある。ただ祭壇の上で長の祈りの言葉を聞き、炎が海上を走るのを眺めるだけの儀式であるのだが、参加出来ると出来ないとでは何もかもが違う。
 片方は大人で、片方は子供。
 そう宣言されているようなものだからだ。
 だが、人々の列の最後尾に立ちながらも、ステラはまったく誇らしい気持ちにはなれなかった。空気は凍りつくほどに寒いし、何も面白いこともない。そして何より、村に残ったシャーリィが気になって堪らなかった。
 シャーリィの年ならまだテルクェスが出せなくてもおかしくないし、どの子供達も親と離れて残っているのだから、シャーリィだけが特別ではない。だが、シャーリィはただの子供ではなかった。
 メルネス。
 村中の、いや水の民中の期待を寄せられて、大人からも下にも置かぬ扱いをされる救世主。同時に、まだそれを理解出来ない子供たちからは、羨望と妬みのまなざしを向けられる。期待と羨望。熱望と妬み。背中合わせの二つの感情が、幼いシャーリィにとってかなりの負担であることを、ステラは知っていた。
 だから、ステラはいつでも全力でシャーリィを庇った。期待も羨望もない気持ちをシャーリィに向けてあげられるのは、姉である自分だけだと、ややしゃちほこばった思いで信じていたから。
(帰りたい…)
 岬の突端では、長が祈りの言葉を朗々と読み上げている。それはまだまだ途中で、儀式の終わりには程遠い。
 白い長衣がばたばたと湿った風にあおられる。幾枚も重ねて着込んではいるが、さして厚くもない木綿の布では、凍てつく風を完全に防いではくれなかった。
 いざ魂達が水面に現れると、後はあっという間だ。きらきらと月を反射して輝く暗い海を、青白い尾を引く炎の玉が滑るように渡って行く。水の民たちは、それを、海渡りと呼んだ。一度見たら吸い込まれてしまうくらいに幻想的な光景で、確かに美しい。全体的に退屈な儀式ではあるが、海渡りの時だけは心臓が震える気がした。
 特に、身内に死者が出た家は感無量だろうが、ステラにはそれもない。指が切り刻まれるんじゃないかと思うような寒さの中に立って居るより、シャーリィと二人で暖炉の前に座っている方がよっぽど有意義に思えた。
 集中の糸が切れると、途端にしかつめらしい顔をして立ち尽くしているのが馬鹿馬鹿しくなって来る。一番後ろに立っているのを幸いに、あたりをきょろきょろと見渡すと、村から上がってくる坂の方から、小さな人影が転がるようにやってくるのが見えた。
 ステラとよく似た、淡い金髪。甘い蜂蜜色のそれが、真っ暗な道をよろよろと近付いて来る。
「シャーリィ!」
 喉の奥で囁くように叫ぶと、ステラは慌てて駆け寄った。
 闇の中で、鞠のように小さな身体がびくんと立ち止まる。
 ふわふわの金髪をピンク色に染まった頬にまとわせた幼女は、今にも泣き出しそうに歪ませた小さな顔に、いっぱいの笑みを広げた。
「お姉ちゃんっ!」
 毬のように弾んで跳び、シャーリィはがばっと大好きな姉の腕の中に飛び込んだ。寒風にさらされ、すっかり凍え切った頬に、シャーリィの頬が重ねられる。必死で走って来たらしい幼女の身体は、ほかほかと暖かくて、冷えた頬が火傷するかと思ったほどだった。
 ステラはシャーリィを抱き締めたまま、微かな声で訊ねた。それでも、その表情は当惑を隠せないようだった。
「シャーリィ、どうしてここに?一人で来たの?」
「うんっ」
「こっそり抜け出して来たの?」
「うんっ」
 声を落として、シャーリィが見えないように、更に覆い被さるように抱き締める。どことなく低く調子を変えたステラの口調に、シャーリィは不安そうに姉を見上げた。ステラの服を握り締める、紅葉のような小さな手は、ほんのわずかに震えていた。幼女の小さな顔の中の、自分を見上げる大きな海色の瞳の中の心細そうな色を無視することは、ステラは出来そうになかった。
 少なくとも自分だけは、シャーリィにマイナスの気持ちを味わわせる存在になってはならなかった。
「…村に帰ったら、皆に怒られちゃうわよ」
「だいじょうぶっ。わたし、一生懸命ごめんなさいするから!」
 ステラの腕の中で、シャーリィは真っ直ぐに姉の目を射抜いた。真っ白な息の向こうのきらきら光る海色の瞳は、ひどく幼かったけれど、同時にひどく真剣だった。
「…わかった!じゃあ、帰ったらお姉ちゃんも一緒に謝ってあげる」
「だいじょうぶだよっ。もうわたし子供じゃないもん」
 だが、寒さで舌ったらずな妹の口調では説得力も何もない。ステラは、ぷっと吹き出した。
「はいはい、ありがと。
 さ、そっちの横の道に行ってよう。そこなら見つからないだろうし、魂送りも見れるし」
 シャーリィの小さな背を押して、ステラは岸壁の脇を這う道を進んで行く。そこは海辺へと出る道で、それほど狭い道でもなく、子供でも普段から良く通る場所だ。ステラもシャーリィも明りなど持っていないので、足下も見えないが、海に落ちる可能性があるほど危なくはなかった。
 ちらっと後ろを振り返って大人達の様子を見ても、彼女が去ったことに気付いたものはいなさそうだった。
(祭壇から出て来ちゃったし、シャーリィは来ちゃったし…)
 村に帰ったら色々怒られるのだろうが、今は気にしないでいよう。ステラの腕を掴んだ小さな指に、白くなるほど力を込めて、真剣な顔で海を眺めるシャーリィを見て、そう思う。
(あたしも大概、シャーリィには甘いなぁ…)
 耳を澄まして祈りの言葉を聞くと、儀式はそろそろ終わりそうだった。あとは、海面を炎が走るだけ。
(だからあの子も、あたし離れ出来ないんだろうけど)
 しかし、誰がいるだろう。この水の民の中で、この子自身の幸せを願ってくれるような者など。
 だが、そのシャーリィを守ることによって、ステラもまた日々を生き抜いているのだと言うことは、ステラもわかってはいないだろう。彼女もまた、決して大人ではない。
 不意に、真っ暗な海に炎が踊る。青白く尾を引き、細かな炎の欠片が水面に散る。頭上の岬に集まった人々から、恐れとも驚嘆ともつかぬ、押し殺した呻きが上がる。あれは神聖なもの。死した者。また一つ、青白い星が踊った。
(ねぇシャーリィ。貴方に、あたしと同じくらい大切な人が出来れば、あなたは幸せになれるかしら?)
 こうして、姉の温もりしか知らず、姉の愛しか知らず、それでこの子は本当に幸せなんだろうか。
 食い入るように海を見つめていたシャーリィが、いきなりぽつりと呟いた。
「…滄我が、おいでって、帰っておいでって言ってる」
 はっとし、目を見張るステラに構わず、シャーリィはあどけない口調で続けた。
「一人になったらおいで、って…。滄我はみんなのお母さんとお父さんだから、優しくしてあげるよ、って言ってる」
「シャーリィ…。聞こえるの?」
 震える声で尋ねると、彼女は肩までしかない蜂蜜色の金髪を揺らして、一つ頷いた。
「寂しくないよ、ここにいるよ、…いつも見てるよ、って」
「…そう」
 焦点の朧気なシャーリィの目に、遠く沖の炎がちらちら揺れる。
 こうして無意識にも、シャーリィは滄我の声を聞いている。やっぱり、この子はメルネスなのだ。存在は感じられても、誰も滄我の声を聞くことなど出来はない。幼い、ステラの妹以外は。
 そうでなければ、どんなに良かったのかと思っても。抗っても。シャーリィは、自分達の希望にならなければならなかった。
「でも私、寂しくないから、まだ滄我のところには行かなくていいよね」
 海の向こうを見つめて、シャーリィがはっきりと言う。再び、はっと意識を戻して、シャーリィの顔を覗き込むと、その海色の瞳は、いつもと同じ鮮やかな青だった。
「だって、お姉ちゃんがいるもん」
 寂しくないもん、とシャーリィはステラに身を寄せた。
 ステラの指に縋る小さな手は、彼女だけのもの。
 ステラだけに捧げられた、絶対の信頼だった。
「…あたしも、シャーリィがいれば寂しくないよ」
 問答無用で妹を抱き返し、その小さな肩に顔を埋める。寒い海風の吹く中で、シャーリィは姉の腕の中で幸せそうに瞳を閉じた。




 最後の魂が深海へ帰り、再び水面は真っ暗になった。誰の声も聞こえない、波の音だけが世界を包む。ざざぁ、ざざぁと荒れる海に、海から生まれた人々は、今年最後の祈りを贈った。








 ステ+シャリ。お姉ちゃんっ子なシャーリィと、シャーリィ大好きなステラを書いてみたくてこうなりました。セネルが水の民の里に来る前です。
 物心ついた頃から、シャーリィはお姉ちゃんが大好きなのです。
 それにしたって、適当な儀式を捏造したものですな(笑)イメージは不知火だったのですが、不知火は秋でした。しかもイカ釣り船だし(笑)


 今年一年の感謝をめいっぱい込めまして。
 Merry Christmas!
 
2005.12.14