time goes by





 二つの静かな足音が玄関を出て、大通りの方に消えたのを確認して、ノーマは生け垣の下から動き出した。亜麻色の頭を緑の葉の間から覗かせ、きょろきょろと周囲を窺う。首を伸ばして通りの向こうを窺うと、ちょうどそこで、ウィルの長身とクロエの黒い後ろ姿が、大通りの喧騒に紛れて消えたところだった。
 ノーマはもう一度頭を引っ込め、念の為一分ほどじっとしていた後、ようやくもぞもぞと這い出した。犬のように頭を振ると、細かい葉っぱや泥がぱらぱらと飛び散る。服や髪についたそれを、手で払い落とし、うんざりと呟いた。
「あーあーあー、もう葉っぱだらけだよ〜。どーしてあたしがこんなことまでせにゃならんのかな〜」
 口ではぶつぶつ言いながらも、ノーマはそこを去ろうとはしなかった。こそこそと、辺りを警戒しながらレイナード邸の左手の裏に再び潜り込む。ただし今度は、生け垣の下からではなく、音を立てないように注意しながらも立ったまま出窓の下まで移動した。猫のように身軽に、微かな物音だけでそこまで到達する。
 見様によっては、これから盗みに入ろうとしている泥棒が、空き巣の物色をしているようにも見えた。というより、そういう風にしか見えなかった。
 窓の脇の煉瓦の壁に身体を押しつけ、ちらりと室内を覗き見すると、ノーマはたちまち苦笑いを抑え切れなくなった。
「セネセネってば、泣きそうな顔しちゃって〜」
 広いレイナード邸の居間の中央で、セネルが一人立ち尽くしていた。両の拳を身体の横で握り締め、わずかに俯き加減に顔を落としている。ノーマの位置からではセネルの表情までは見えない。俯いた横顔は影に覆われて、銀色の髪が小刻みに震えているのがわかるだけ。
 それでもノーマには、セネルの表情が手に取るようにわかる気がした。





『よし、じゃあ、うち来るか!』
 一言二言言葉を交わすなり、男がいきなりそう言い出したので、ノーマは表情をつくろうことも忘れて素頓狂な声を上げた。
『はぁ!?』
『おーいいねー、我ながら名案だね、こりゃ』
『おい!』
 1人でうんうん頷いて納得している男に、ノーマは更に声を荒げた。男はたぶん二十代の半ばほど。無精髭を生やして、少しざんばらにのびた茶色の髪を首の後ろで無造作にしばっている。風体はすりきれた旅人といった感じで、実際、大きなリュックを背負っていた。
 いつのまにか掴まれていた自分の左手を、力任せに振り解く。だが男は、彼女の怒鳴り声にも、乱暴に振り払った腕にも、ぎり、と睨み付ける視線にも、まったく怯んでいないようだった。
 ただ、人好きのする顔でちょっと困ったように柔らかく笑って、ノーマの腕をもう一度手に取った。
『いいから来いって。どうせ家出かなんかだろ』
『お前には関係ないっ!あたしに構うなっ!』
 暴れて、腕を掴む男から逃れようとしたが、次は離してもらえなかった。逆に、左腕を掴まれたまま、ずるずると引っ張られる。休日の昼間、多くの人で混雑する大通りを、平然と進んでいく。
『離せっ!』
『離しませーん』
『〜っ!痴漢!変態!セクハラ!通り魔!ロリコーンっ!』
『………うわぁ、どれも傷つくけど、ロリコンは嫌だなぁ。俺、お前みたいなお子ちゃまには興味ないし』
『じゃあ離せよっ』
 じたばたと暴れるノーマは、掴まれた左手以外の手足を全力で振り回して声を限りに喚いた。
 いくらごった返した大通りの中心で、周りの音に叫び声が隠れるとは言え、そんな大声を上げていれば自然と目立つ。どこからか、保安官が駆け寄って来た。
『どうした。何かあったのか』
『ああいやいや、この子はうちの親戚でね』
 不審そうに尋ねる保安官とノーマの間に割って入って、男はへらりと笑った。だが、いかにも怪しげな風体の男の言い草を、端から信じる気はないらしい。男のがっしりした背中の後ろに隠れた、ノーマと話をしようと、優しい声を出す。
『本当かい?』
 だが、ノーマは保安官の言葉に身を縮ませると、あれほど逃げようとしていた男の背に、更に身体を隠した。男は、そんなノーマの様子に肩を一つすくめると、困ったような微笑で保安官を見た。
『こいつ、すごい人見知りでね』
『そうか?怯えているようにも見えるが』
『そりゃあそうさ。これから俺の又従兄弟の家に、法事に行くところでね』
 疑わしげな保安官の視線を受けたまま、男はぺらぺらと言葉を続けた。
『そいつがまぁ筋金入りの子供嫌い!子供と見ちゃあ苛めるもんだから、親戚中のガキはそいつを嫌がってるんだが、法事とあっちゃそうもいかねぇだろ?で、俺がこれから泣きわめくこいつを引っ張ってかなきゃいけねぇワケさ』
 おどけてさらりと嘘を並べ立てた男が、くるりとノーマを振り返る。な、と言う男の言葉に、彼女は、震えながらも、一つ深く頷いた。
『な?』
 そう言って保安官に目をやった男の笑顔は、壮快で暗いところは見当たらない。何より、その人好きのする表情を疑うのは、正直至難の技だった。保安官も渋々同意する。
 すごすご引き下がる保安官の背に笑顔で手を振る男の横で、ノーマは呆然と立ち尽くしていた。のろのろと、男の長身を見上げる。呟いた声は、囁き声かと思うくらいに微かだった。
『……どうして嘘ついたんだ』
『お前さん、連れてかれたくなかったみたいだったからな』
『……』
『俺だって変質者で捕まるのはゴメンだし』
 唇を噛んで言葉を失うノーマに、男は相変わらずのへらへらした口調で答える。
 男が、本当に純粋な善意でそうしてくれたのがわかったノーマは、愕然とした。こんな、無条件の優しさは知らない。いや、こんな優しさ自体、ノーマにとっては未知のものだった。
 これは夢だ。ノーマは男の穏やかな目を見上げながらそう思った。助けて、と。心の中であんまり叫び過ぎたから、自分が作った幻なのだと。
 そうとしか考えられなかった。
 目元から、溢れそうになるものを堪えるのに、強く強く、両手を握り締める。そんな彼女の様子を知ってか知らずか。男は、彼女の頭を、ぽんっと叩いた。
『さて、行くか』
 そして、ノーマの肩を親しげに押す。堪らず、ノーマは肩に触れた腕を全力で払った。だが、叫んだ声はさっきに比べてかなり弱々しいものだった。
『待てよ…!…どうして、あたしに構うのさ』
 肩を震わせ、拳を握り、両足を肩幅に開いて踏ん張って、下唇を噛んで、大きな鳶色の瞳を潤ませて。今にも泣きそうになりながらも、一滴の涙すら零すまいと毅然と顎を引く小さな姿。男は軽く目を見開いて、少女に振り払われた腕を見つめた。泣きそうになるのを堪える為に荒く息を吐きながらも、それでも一人で立つ姿に、男は表情を歪めた。
 目一杯の、優しさを込めて。
『…俺、困ってる奴はほっとけない性格なの』
 そして、仁王立ちする少女の背を、もう一度叩く。よろよろと、押されるままに歩き出すノーマ。
『…そんなの、理由にならない…』
 呟く言葉に涙が絡む。すれ違う人波の中、少女の声は喧騒に掻き消える。
『何となくさ』
 頭上から降って来るのは、ちゃらんぽらんな、明るい声。だがそれは、ノーマが今までに聞いたことのある全ての声のうちで、一番優しいと思える声だった。かつての、大好きだった人達の声と同じぐらいに。
 ぽつん、とまたもや立ち止まるノーマの髪をぐしゃぐしゃっと、大きな手がかき回す。
『それに俺、ノラ猫を拾うのも好きなの』
『…っ』
 ひっ、と息を飲み込んで喉が鳴る。スカートを握り締める、頑なで小さな手に、男の無骨な手が重ねられた。真っ白になるほど握り締められた手は、甲をさすってくれる大きな手に、あっという間に陥落した。するり、と少女の小さな手を、大きな手が掴み取る。
 軽く手を引かれて、ちぐはぐに並んだ二つの背が、雑踏の中を歩き出す。優しく包み込むように握り締めてくる手と、どこまでも穏やかなその声に、ノーマはとうとう声を殺して泣き始めた。






「…あーあー、見てらんないねぇ」
 苦笑いし、ノーマはセネルの様子を眺めている。俯くセネルの姿が、昔の自分にダブってイヤになる。誰も助けてくれないからと、誰も信じてくれないからと、突っぱねて、さらに一人になっていたあの頃。じっと涙を堪えては、くじけまいと心に誓った。泣いては負けだと、助けを求めては終わりだと、ただひたすらに思い込んでいた。
 セネルの気持ちなど、手に取るようにわかってしまう。
(まぁ、あたしには、ししょーみたいに無償の愛をばら撒くなんてワザ、とてもとても出来ないけどね)
 ノーマが窓から中に入ろうとすると、薄暗い室内の中で、セネルの銀髪がふるふるっと左右に振られた。
(あたしの目的と、セネセネの望みが一致してるんだったら、手伝ってあげてもいいかな、って思うワケよ)
 銀髪の間から垣間見えた、セネルの空色の瞳に浮かんでいるものに、窓を開けようとしていた手が止まった。そこに見えたのは、ノーマも良く知っている鮮やかな感情。
 見開かれた鳶色の瞳は、次の瞬間深い笑みに満たされた。
(だってほら、ししょー言ってたじゃん?)
 ひた、とウィルとクロエが去った扉を見据える空色の目には、確かな決意。
(『涙を飲んで、顔を上げられる奴は、胸を張れるぐらいに我慢強い奴だ。見所があるぞ。恩、売っとけ』ってさ)
 大股で一歩踏み出して、扉を開けて。ずんずんとレイナード邸を飛び出すセネルを、ノーマは慌てて追った。転がるように生け垣を乗り越え、家の脇に身を寄せる。
(ノーマ・ビアッティ、ししょーの教訓通り、全力で恩売っときます!)
 ノーマは、レイナード邸の玄関先で追いついたセネルに、勢い良く飛びついた。




「手伝って…くれるのか?」
 驚いて空色の瞳を回し、瞬きするセネルに、ノーマは満面の笑顔を弾けさせた。
「当ったり前じゃーん!!あたしは、懐の広〜い女だからね!」
 とか何とか言いつつ、しっかりシャーリィのブローチで交換条件を取り付けて、ノーマはセネルの後をついて行った。
 そんなノーマの行動に、下心以外のものもかなりあったとは、この時のセネルはまだ知らない。








 神降臨(笑)かなりの勢いで書き上げました。
 ノーマさんの中で、スヴェンさんが占める割合っていうのはすごく大きくて、たぶん彼女がしていることの理由の大半を占めてると思うんですよね。
 スヴェンさんにその気がなかったとしても、ノーマさんは絶対彼が好きで、その気持ちは今でも変わらないんだと。
 そう思ってます(笑)
2005.11.30