Rainbow Chaser





 右か、左か。
 選択はいつもどちらか、二者択一だ。
 戦いたいか、戦いたくないか。
「今は戦うべきではない」なんて答えは、許されない。
 突けば崩れ落ちそうな張り詰めた沈黙の中、息を吸う音だけが低く響く。幾十もの瞳に囲まれ、彼女はごくりと唾を飲み込み、からからに乾いた喉を湿らすと、ようやく、口を開いた。
「…私は」






 その一報が入って来た時、オーウェン家の若い女主人は、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして、薄い茶色の瞳を真ん丸に見開いた。
「…なんですって?」
 眉の端のきりっと上がった気の強い顔をしかめて、報告を持ってきた若い男を睨み付ける。
「そんな、鬼も殺せそうな目をするな。私だって嘘だと思いたい」
 女の視線を右手で振り払い、柔らかい茶色の髪を綺麗に撫で付けた、漆黒の瞳を細めた男が、苛立ちながらマントを払う。
 シャンデリアと色鮮やかな絨毯に飾られた広い食堂の、長いテーブルの傍にいるのは言い合う男女だけだ。男が、どすんと上座の椅子に腰を下ろす。
 女は、白い右手で口を押さえ、呆然と呟く。
「だって…、あの子、馬鹿な真似はしないって。出来るだけ穏便にするって」
「最後まで、あいつはそのつもりだったさ。それに、国と陛下への忠誠心も、誰があいつの右に出るというんだ?」
 言葉は戸惑っているものの、きつく問い詰めるような女性の鋭い視線から逃げ、男は苦々しげに吐き捨てた。
 そんなこと、自分がよくわかっている。
「あいつの勤勉さの一欠片でも、上役の連中に分けてやりたいくらいだというのに」
「だったらどうして!」
「…国境戦線に、クルザンドの第1王子が出てくる」
 思わぬ名を聞き、女の表情がぴしりと固まった。
「なん、ですって?」
 言葉が喉に引っ掛かる。
 女を横目でちらりと見上げ、男は大仰に肩をすくめ、こめかみを押さえた。
「会議中に、早馬の知らせがあった。知っての通り、第3王子が死んだのを境に、流石のクルザンド王も侵略に乗る気が失せ、国境戦線は残存兵だけのほったらかし状態になっていた。だが、何があったか知らないが、もう一度本気になって、国境戦線に当たるつもりらしい。それで、第1王子が自ら指揮官として、国境に来る」
「…まさか、あの子」
 ざあっと、女の顔から血の気が引いた。
「…最優先事項はクルザンドとの国境だと、断固として言い張った。他のものにかまけているぐらいなら、兵を鍛えて国境の守りを厚くすべきだと、そう言ったんだよ」
「騎士団長殿は…」
「勿論、納得しなかった。あれは、上層部の主張では、クルザンドの侵攻を阻むための計画だ。
 むしろ、今やらずに、いつやる、という話になった」
 額を押さえ、男は深く嘆息した。身体がどっと疲れている。弱音など吐いている場合ではないが、恨み言の一つでも吐かないことにはやり切れない。
「…それで、あの子は」
「…ひとまず、自宅謹慎だ。団長の子飼いの連中が監視についている。私達は、近寄らせてももらえなかった」
「…そう」
 女は、眉間に深いしわを刻ませて、淡い栗色の髪をかきあげた。その仕種には疲れが滲んでいる。
 男は彼女の表情に顔を歪めると、立ち上がって優しく肩を叩き、そっと抱き寄せる。
「誰か、うちに探りに来るようなやつがいたら、知らぬ存ぜぬを貫き通せ。あいつのためにも、俺達まで行動を制限される訳にはいかない」
「…わかってるわ」
 男の肩に顔を埋めて、女は苦々しく、微かに呟いた。
 どんなに唇を噛んだところで、出来ることと出来ないことがある。今すべきことと、今は我慢すべきことも。
 女はすっと身を引くと、男を見上げてふわっと笑った。
「家のことは任せて。その代わり、あの子のことは任せたからね」
「ああ」
 男は大きく頷いて、女の額に触れるか触れないかの口づけをすると、大股で広間を飛び出して行った。
 一人残された女は、ふらっと椅子に倒れ込む。かたかたという音に、視線を下ろすと、今になって、指先が微かに震えていた。
 震える右手を、震える左手で押し止めても、その震えが治まるわけもない。
 思い通りにならない身体に苛立ちながら、女は祈るように両手を組んだ。信じる神はいない。けれど、今は祈れるもの全てに、何を捧げても縋りたい気分だった。
「…お願い、無事でいて。クロエ…」






 鎖こそ嵌められはしなかったものの、両側を騎士に固められて自宅に帰ったクロエ・ヴァレンスに、使用人達は度肝を抜かれた。
 ここ最近、主人が騎士団の首脳部と折り合いが悪いのは知っている。だが、まさかこんな状況になろうとは、想像もしていなかったのだ。屋敷の玄関で謹慎を宣告されたクロエは、冷静な態度でそれを受け入れ、使用人達に取り乱さないでいつも通りに振舞うようにと指示すると、早々に書斎に向かう。
 二階の隅の、日のよく入る部屋がクロエの書斎だ。毎日丁寧に掃除してくれているお陰で、埃一つ見当たらない。銀の蝶番の掛かった扉を開けて書斎に入ると、ランプの灯りはすでに入れてあった。
 マントを脱ぎ捨て、ソファに放り投げる。
 油で固めてあった髪に、乱暴に手を突っ込んで、ぐしゃぐしゃとかき回した。頭を振って、頬に掛かった毛先を払う。首の一番上までしっかりしめた服の襟元を寛げながら、床から天井まである窓の傍に立って庭を見下ろすと、その先の道に幾人もの騎士の姿が見える。
 馬鹿だな。私が、逃げも隠れもするものか。
 口の端を歪めて、自嘲気味に笑う。そもそも、逃げたり隠れたり出来ていたら、こんな状況にはなっていないというのに。
 カーテンを閉めようかと悩んで、止めた。何もわざわざ疑われるようなことをする必要はない。
 そしてクロエは、崩れるようにソファに倒れ込んだ。
 鈍く熱い瞼を、そっと下ろす。
 私は、間違ったことはしていない。
 後悔していないと言い切ることは出来ないけれど、あのまま黙っていて良かったとは思えない。仰向けに寝転んで、深く息を吐いた。
 水の民の代表であるメルネスを、秘密裏に確保し、遺跡船をガドリアの支配下に置く。それは、数年前にも計画されたものの、メルネスの覚醒やレクサリアの介入で、うやむやになってしまった話だった。勿論その場にいたクロエとしては、それで良かったと思っているし、シャーリィと姉妹同然の間柄になった今となっては、そんなことを口にするだけで恐ろしい。
 遺跡船を、シャーリィを、この自分が奪うなんて。
 考えられない。考えたくもない。
 この手で、シャーリィをセネルから引き離して、遺跡船を奪って…。
「…馬鹿馬鹿しい」
 祖国を守りたい気持ちに、一片の嘘もない。しかし、その代わりに失うものを考えたら、とても黙っていることなど出来なかった。
 クロエは、うっすらと鳶色の瞳を開く。
 ぼんやりと熱い頭の片隅で、思い出すのは仲間達の顔だ。
 手を取り合って、二人で生きているセネルとシャーリィ。
 愛娘ハリエットと毎日仲良く親子喧嘩をしているウィル。
 祖国コルネアで必死に勉強に励んでいるノーマ。
 モフモフ族に囲まれて、今も遺跡船を守り続けるジェイ。
 気の良い性格と底抜けの明るさで、周囲を和ませているモーゼス。
 ここではない何処かで、自分達を見守ってくれているグリューネ。
 どうしてここに、皆がいないのだろう。
 祖国に戻って、騎士の位を取り戻して。それが自分の望みだった筈。それを悔やんでもいない。
 けれど。
「……今、皆に会えたら。他には、何もいらないのに…」
 痺れるほどにきつく奥歯を噛み締めたのに、頬をするりと涙が滑る。
「どうして、私はここにいるんだろう……」
 小さな自問自答は、彼女の耳にしか届かない。
 声を上げて泣き喚きたいのを堪えているうちに、クロエはいつしか浅い眠りに落ちていった。










 3周年御礼ということで無料配布した冊子より。
 ガドリアに戻って、騎士の位を取り戻した後のクロエのお話。
 ED後5年くらい。ガドリアがまた遺跡船を狙うために動き出したのて、それに反対したクロエが自宅に軟禁されて〜、というところから始まります。
 クリア直後から温めているネタなので、何とか形にしたいです。


 クロエは泣かす予定ではなかったのに、何故か書いているうちに泣かせてしまっていた…。
 私の中ではクロエは、自分よりも仲間よりも、自分の理想と他人からの期待を大事に出来る人なんですが、そこと本音とのギャップについての悩みなんかも書いてみたい気がします。

2007.4.8