生きる。貴方の為じゃない、私の為に





 ふとシャーリィが、ウェルテスのよく晴れた空を見上げると、白い煙がゆっくりと、ぷかぷかと千切れ雲の浮かんだ空に昇っていっていた。





「モーゼスさーんっ!」
 呼ばれて、隻眼の山賊は青空を見上げていた片方きりの目を地面に下ろした。
 サンダルをひっかけた足をぶらぶらと揺らし、リラックスした姿の赤毛の山賊の視線の先には、芝生の真ん中に立っている、腰までの金髪を陽光にきらめかせた笑顔の少女の姿があった。少女はその左手に、籐のバスケットを提げている。
 モーゼスは、破顔一笑し、その人好きのする笑顔で、明朗快活に答えた。
「おう、嬢ちゃん。どうしたんじゃ。セの字と待ち合わせか?」
「はい!…って言っても、相変わらずなかなか来ないんですけどね」
 明るく答えた少女は、苦笑して、困ったように肩を竦める。彼女の兄のセネルは、極度に朝に弱い。本人もそれは重々承知していて、この悪癖を治そうと試行錯誤しているらしいが、めっきり効果はないようだ。
「モーゼスさん、そんなところで何してるんですか?」
 首を目一杯上げて、シャーリィが訊ねる。彼女の質問はもっともだ。
 ここは、ウェルテスの一番奥にある、灯台前の公園だ。街の住民すべてが集まれるほどのかなり大きな、緑溢れる市民の交流の場であり、南東の一角にはモーゼス率いる元・山賊団がテントを張っている。南側中央部には、灯台公園のシンボルの花時計があり、公園を十字に分けるように、芝生の中に敷かれた小路は街のオススメ散歩コースにもなっている。
 シャーリィが立っているのは、その灯台の前、公園の最も北側にある水車小屋の前だ。そして、首が痛くなるほど見上げているのは、その小屋の、屋根の上。
 その縁に座ったモーゼスだ。
 片膝を立てた非常にのんびりした様子で、ぷかぷかと白い煙をふかしている。右手には、長い煙管が握られていた。
 何故、わざわざ水車小屋の上で?
 煙と何たらは高いところが好きですから。モーゼスにツッコムことを生き甲斐にしている情報屋がここにいれば、間違いなくそう言ったに違いない。
「煙草やっとるんじゃ。嬢ちゃんも一服やらんか?」
 モーゼスはからりとそう言うと、右手の指の間に挟んだ長い煙管を持ち上げて、シャーリィに示して見せた。金属の雁口から、白い煙がゆらりと立ち昇る。彼の育った魔獣使いの里では、一人前の男は例外なく煙草を愛飲するらしい。
 実を言うと、シャーリィは刻み煙草の強い香りがあまり好きではなかった。水の民の大人もよく煙管を使っているが、それを見るたびにどこがおいしいのだろうと思ってしまう。
 しかし、底抜けの明るさを放つモーゼスの笑顔を見上げて、シャーリィはにこっと笑った。
 まあ、煙管をふかすかどうかは別として、水車小屋の屋根の上から望むウェルテスの街並には、かなり心が惹かれた。
 それに、どうせあのセネルのことだ。そうそうすぐに来るとは思えない。
「はい!」
 小屋の前に並べられている樽の上に飛び乗ると、モーゼスが上から手を差し伸べてくれる。その手に掴まると、ひょいっと簡単に屋根の上まで引き上げられた。
「嬢ちゃんは軽いの」
 隣に座って、もぞもぞと身体を落ち着かせたシャーリィに、モーゼスが笑い掛ける。
「でも私、もっと…色々あった方が良かったです」
 背とか胸とか。口をちょんっと尖らせてシャーリィが答えると、その微妙な乙女心には気付かぬモーゼスが、相好を崩して、うんうんと深く頷く。
「そうじゃなぁ、姉さんとかのぅ」
「グリューネさんみたいには、もうどんなに頑張っても無理そうですから。せめて、クロエぐらいには」
 握り拳で決意するシャーリィに、モーゼスは少し意外そうな口調で答えた。
「嬢ちゃんだって、十分別嬪じゃが」
 その言葉に、百パーセントの本気しか含まれていないことはよくわかって、シャーリィの顔に淡く血が昇る。よくも悪くも裏のないモーゼスは、いつも思ったことを直球で言ってしまう。
 会話が噛み合っていない、と思いつつ、とりあえず素直にお褒めの言葉をもらっておく。
「あ、ありがとうございます…」
 そんなシャーリィの中の動揺にはちっとも気付かないモーゼスは、シャーリィの抱えていたバスケットに目を向け、その中を覗き込む。
 早速、話がころりと変わった。
「セの字とは昼飯食うつもりだったんか?」
「はい。今日は私がお休みなので、公園にでも行こうか、って言ってたんですけど」
 ぐる、と片方だけのモーゼスの瞳が公園中を隅から隅へと見渡す。
「…おらんの」
「家まで迎えに行った方が良かったかも知れないですね。失敗しちゃったかな」
 公園に人の姿は多い。散歩をしている街の住民やら、モーゼス配下の山賊やら。ぽかぽかと顔も綻ぶ小春日和、みんな日光を求める植物みたいに、太陽の下で伸びをしている。
「ま、せっかくこんなとこまで登ったんじゃ。少し日向ぼっこしてりゃええ」
 煙管を右手の親指と人差し指で挟み、モーゼスはいかつい顔をくしゃりとさせて、からからと声を上げて笑った。
 無邪気に笑う山賊の隣で膝を抱え、シャーリィはその軽やかな笑い声にくすぐったそうに微笑む。
 モーゼスの、長くてごつごつした指が、煙管を薄い唇に運ぶ。彼は、本当に美味しそうに、その細い管の煙を吸い込んだ。
そして、ふうっと、吐き出した白い煙が青い空に流れて消える。
「…ギートに初めて会うた日も、こんな天気じゃったな」
 くっきり形を作った雲が、ぷかりぷかりと空の高いところを飛んでいたっけ。
 勝負を挑んで放り投げられて、仰向けに転がった地面の上から見上げたのと、同じ空の色。
 シャーリィは、無言で、モーゼスの横顔を見つめる。
「ワイと出会うた頃は、まだまだこーんなちっちゃかったっちゅうのに、いつのまにやらあがあに大きくなりくさっての。取っ組み合いの喧嘩なぞしようもんなら、それこそ命懸けじゃったな」
 懐かしそうに、おどけてモーゼスが笑う。一つ息を吐いて、いきなり真剣な顔になる。
「…ギートを殺さにゃあ、もうどうにもならんって思うた時、セの字のことを思い出したんじゃ」
「…お兄ちゃんのことを?」
 シャーリィの囁き声が一つ落ちる。
「静の滄我に力を借りて、嬢ちゃんを止めに行こうとした時じゃ。もし、嬢ちゃんをどうしても止められないようなことになったら、自分で嬢ちゃんを倒すと、セの字が言うた。そん時は、そんなこと絶対許さへん、ってセの字に猛反対したもんじゃが。
 …気付いたら、ワイもおんなじこと言うちょった」
 他の誰かに殺されるくらいなら、自分の手で。
 それはきっと、そう決めたものにしかわからない、重過ぎる決意。
「今んなって思うんじゃ。もしセの字が嬢ちゃんを止められずに、嬢ちゃんを殺しちょったら、きっとセの字はその後、…自分で死んだんと違うか、ってな」
「モーゼスさん…」
 一瞬、シャーリィの海色の瞳がわずかに潤む。その瞳の色は、いつもよりもずっと濃い青だ。
「家族を殺すいうんは、それくらいの代償があるっちゅうことじゃのう」
「…そうですね」
 長い睫毛に縁取られた、海色の瞳を伏せて、シャーリィは厳かに答えた。
 もしも、滄我の怒りのままにセネルを殺していたら。きっと後に残るのはひたすらに水の民のことを考えるだけの、ただのメルネスだ。シャーリィ自身ではない。セネルを好きだった、ただのシャーリィは、きっと、この世の何処からも消えてしまっただろう。
「じゃが、ワイは生きちょる」
 シャーリィの物思いを、モーゼスの明るい言葉が、ぱっと振り払った。つられて、ふわ、と顔を向けると、山賊は白い歯を見せて、シャーリィに顔いっぱいの笑みを披露する。
「ギートも生きちょる。セの字も嬢ちゃんも生きちょる。
 それで十分じゃ。起きんかったことをぐちゃぐちゃ言うても仕方ないからの」
「…そうですね。私、生きてて良かった。お兄ちゃんを殺さなくて、ほんとに良かった」
「ワイもじゃ。ギートを殺さんでほんまに良かった。…みんな、ワレらのおかげじゃな」
 低く滑らかなモーゼスの声が、優しく耳に響く。再び煙管を吸って吐き出された白い煙が、シャーリィの顔の横で、真ん丸な輪っかになって、青空に吸い込まれていった。
「それを言ったら、私とお兄ちゃんが、今ここにいるのも、皆さんのおかげですからね」
 言って、シャーリィが海色の瞳を閃かせると、モーゼスはにやりと口の端を引く。
「違いないわ」
 二人は、顔を見合わせ、同時に破顔一笑した。悪戯っぽく、シャーリィが声を弾ませる。
「私、これからもしぶとーく、生きていきますね」
「ワイもじゃ」
「自分の為に、ですよ」
「わかっちょる。ワイはワイの為に生きる。…それが、ギートの為にもなるじゃろうからの」
 再び煙管を咥えたモーゼスを見上げて、シャーリィは鮮やかに笑った。
「じゃあ、約束ですよ」
「嬢ちゃんもな」
 煙管を吸い込んでからそう答えたものだから、かっこつけて言った口から、白い煙が漏れて、ゆっくりとたなびいていく。
「それじゃあ、乾杯しましょうか?」
 ちょっと冷めた紅茶ですけど、と言って、シャーリィがバスケットの中から陶器のポットを取り出した。セネルとの昼食用に淹れてきた紅茶だろう。
「いいんか?」
「いいです。いつも寝坊するようなお兄ちゃんなんて知りませんから」
 半分くらいは本気で言っているようなシャーリィに紅茶のカップを押し付けられる。湯気は立っていないが、カップはまだ十分温かい。
 自分の分もカップに注いだシャーリィは、モーゼスの前に白い花びらの形の、そのカップを突き出す。
「今ここにいることに」
 モーゼスも、彼女にならって、華奢なカップを差し出した。
「乾杯じゃ」
 ちりん。白い花びらの、華奢なカップは、澄んだ高い音で涼やかに鳴る。
 苦い紅茶を一口飲んで、二人の視線がちらりと交錯する。
 そして、口に上るのは、心から思うこと。
 笑った目を見交わして、山賊の野太い声と、水の民の少女の鈴を転がす声が、まったく同時にウェルテスの快晴の空に響き渡った。
「生きてるって素晴らしい!」













シャーリィ+仲間お題4つ目(3つ目より先にこっちの方が完成してしまいました)
モーすけ+シャーリィも好きです。
ほのぼのコンビ。この二人でも兄妹に見えるかも、とか思いながら書いてました(笑)
2007.3.7