水鏡





 大海原の真ん中は、波一つない凪だった。
 磨き上げられた硝子のように、きらきらと輝く水鏡。白を混ぜた淡い空の青と、深い海の青が、水平線の上で混じり合う。空の青、雲の白、様々に色を変える海の色。
 これこそが、彼らが望む世界。彼らの望む、あるべき世界の姿だ。
 涼しい海の風が頬を撫で、ワルターはようやく我に返った。普段から白い顔には、今はさらに生気がなく、感情の欠片すらも見えない。ただ、硬く引き結んだ唇だけは鬱血し、異様なくらいの赤さが目に付く。
 もう、随分とそうしていたのだろう。中天で輝いていた太陽も、今はだいぶ西に傾きかけている。背中を支える魔獣は不平など言う訳がないので、まったく気付かなかった。だが、腕の中の冷たい身体を抱える腕からは、すでに感覚が失せていた。
「メルネス…」
 身体を満たすのは、かつて味わったことのないほどの、力の高まり。爪先から中指の先、髪の一筋にさえも、満ちているのを感じる。暖かく、ひんやりとした、滄我の力。
 これが、メルネスの目覚めか。
 対して、腕の中にあるのは、氷のように冷たくさえ感じる、蝋のような身体。
「…くっ、くくく…」
 口の端を薄く引くと、ワルターは唐突に笑い出した。最初は小さく、引っ掛かるように。そのうち、堪え切れず弾けるように声を上げると、白い喉を仰け反らせて。狂ったように笑い続けた。
「はははははは…っ」
 鳥一羽浮かんでいない青空に、乾いた笑いがこだまする。ネジのゆるんだ、ゼンマイ仕掛けの玩具のように、ワルターの声は止まらない。
 しばらくして、ようやく笑いが収まると、彼は水面に身体を寄せた。
 ひたりと、足から海に浸かるのは、とうにこと切れた少女の身体。明るい小麦色の髪は水面に広がり、眠るように閉じられた瞼は、もう開けられることは決してない。
「…ゆっくり休め」
 告げた言葉は、平坦で。先程までの狂った笑いの気配は一つもない。むしろ、感情というものを全部押し殺して、理性の最奥にしまいこんでしまったかのよう。
 ほんの刹那の逡巡の後、ワルターは少女の身体を支える手を離した。少女の白いローブがゆっくり靡き、深い深い水底に沈んでいく。水の民の彼ですらも届かぬ場所、死した水の民の還るべき場所へ。
 どんなに目を凝らしても、少女の姿が見えなくなると、ワルターはようやく立ち上がった。少女の身体を抱えていた両腕は、どす黒く変色した血に染まっている。だが彼は、それを厭うつもりはないようだった。べたべたと粘る拳を握り締め、少女の消えた深海へ、切れ長の蒼い瞳をひたと向け続ける。
 彼は不器用で、多くの言葉を持っている訳ではない。だから、こういう時に何を言うべきなのかもわからなかった。
 随分と長い間、そのまま水面を見つめ続け、彼はとうとう沈黙を破った。
「…感謝…している…。…フェニモール」
 最後にその名を呼んだ時、見つめる瞳がちらりと揺れた。




 次に顔を上げたワルターは、いつもとまったく変わらぬ無愛想な表情で。
 だが、蒼い切れ長の瞳には、冷たい焔が踊っていた。








「蛍火」を聴いていて、ステラのお葬式を書こうかと思い立った時、「水の民が土葬って変だよなぁ」と思ったことからこうなりました。
 ステラで書くと、長くなりそうだったのでワルフェニで。
 ワルターは、メルネスが覚醒したことと、メルネスの護衛のポジションをセネルから奪い返したことをすごく喜んでいる訳ですが、同時にフェニモールが死んでしまったことが、思いの外引っ掛かってる。そんな自分に、何となく戸惑ってる感じです。
 厳密に言えば、ワルフェニではないのかな。

 決して種デスからネタを拾ってきたわけではありません(笑)
 タイトルを「深海の孤独」にしようかな、とは思ってしまいましたが(笑)

2005.10.16