Don't call my name





 本能を縛り付ける、甘くて冷たい氷の声が、ジェイの耳をそろりと撫でた。
「では、よろしく頼みましたよ…、ジェイ」
 吐き気がするほど憎くて、悪寒が走るほど嫌いなその声は、それなのに、どこか心が静まった。
 自分と同じ、闇の匂いがした。




「ちょっと〜、ジェージェーだいじょぶっ?」
 ソロンの残した冷気を振り払うような明るさで、底抜けに元気なトレジャーハンターが坑道の奥から駆けて来る。その後ろには、仲間たちの足音が続く。
 じっとうずくまって膝をついていたジェイは、ノーマの声が響くと同時に、息が詰まるほどの冷気が消えて、胸の内で燻っていた呼吸が、どっと押し出されるのを感じた。肩を大きく揺らしながら浅く息を吐いては、同じくらいわずかに吸う。空気が足りていないはずなのに、体が言うことを聞かない。いつのまにかにじんでいた脂汗が玉になって、色の薄い頬をつうっと流れた。
「ジェー坊、どないしたんじゃ!?」
「ジェイ!怪我はないか?」
 気遣う言葉を口々に叫びながら走って来る仲間達の先頭に立った、鉄砲玉みたいなノーマが、うずくまるジェイの背にそっと手を乗せる。
「ジェージェー?なんともない?」
 背中に感じたノーマの手の暖かさに、一瞬胃が縮む。地面をかく手の爪の間に、細かい砂が入って違和感を訴えたけれど、そんなのはどうでも良かった。頭がぐらぐらする。まるで、脳みそに手を突っ込まれて、煮詰めた鍋みたいにかき回されているよう。
「ジェージェー?」
 幾度目かにノーマが自分の名を呼ぶ声で、ジェイははっと我に返った。堅い地面に爪を立てた指は真っ白で、小刻みに震えている。背中を冷たい汗が滝のように流れていた。
 今の自分が、どのような人物であったのかを思い出し、重い体を揺らして立ち上がる。取り乱している姿を見せてはならない。
「…大丈夫です。大したことはありません」
 膝をついているジェイを取り囲むように、仲間達がみんな、心配そうな表情をしている。
 あの、トラブルメーカーのノーマですら、そこに浮ぶ気遣いの表情は本物で。覗き込んで来る鳶色の瞳と、目を合わすことが出来なかった。
 視線を逸らして、出来る限り無感情に言う。
「次の情報は手に入りました。行きましょう」
 守らなければならないものがある。たとえ、他の何を犠牲にしても。
 すべてを諦めたくないと足掻いて、その一番大切なものを失ったら、おそらく自分は一生後悔するだろう。
 だったら、初めから、すべてを望みはしない。
「嘘言うなよ。震えてるぞ、ジェイ。モフモフ族の村に帰って、少し休んだ方が…」
「平気です!」
 肩に乗せられた手を振り払い、心配そうなセネルの言葉を弾き飛ばすような声で、ジェイは叫んだ。頬を張られたように驚いて、セネルは二度瞬きをしたが、その後に浮んだ表情はさらに深い心配の色だった。
 これは、あまりにもいつものジェイとは違い過ぎる。
「…平気です。別に、何ともありません」
 セネルの顔にぱっと現れた、少し傷ついたような表情が、ジェイの自制心をぐらつかせる。
 これぐらいで、怯んでいてどうする。と、ジェイは自分の心を叱咤した。たとえ、ここにいる全員の、そんな表情を見ることになろうとも、さらに激しく罵倒されようとも、それよりも大事な、失くしたくないものがあるのではなかったか。
 それを失くさないために、どんな手段も惜しみはしないのではなかったか。
「行きましょ…う」
 震える足で立ち上がり、一歩踏み出すが、足下がおぼつかない。声に出した言葉も、思ったよりも微かで、聞き取りづらかった。
 それでもなんとか二、三歩進むが、そこが限界だった。力の入らない膝ががくがくと笑って、地面にくずおれる。その瞬間、張り詰めていた緊張の糸も、ぷつんと音を立てて千切れ飛んだ。
 驚く仲間たちの悲鳴にも似た声を耳の奥で聞きながら、ジェイの意識はすとんと落ちるように、深い闇へとブラックアウトした。






 …ねえシャーリィさん。
 涙ながらに怒りながら、クロエさんを引き止めた貴方なら、僕がこれからしようとしていることを知ったら、やはり怒るでしょうか。
 ねえクロエさん。
 正義感の強い貴方は、そんなことをした僕を、果たして許してくれるでしょうか。
 ねえウィルさん。
 そうしたら貴方は怒って、いつもみたいに、力一杯僕を殴ってくれるでしょうか。
 ねえグリューネさん。
 その後でも、貴方はいつもみたいに、僕に笑い掛けてくれるでしょうか。
 ねえセネルさん。
 それでも貴方は、僕を仲間だと言ってくれるでしょうか。
 ねえ、…ノーマさん。
 貴方はこんな僕の前で、もう一度、ふざけてみせてくれるでしょうか。



 ねえモーゼスさん。
 いくら単純な貴方でも、僕をバカだと笑い飛ばして…、…許してくれはしないでしょうね。







 ………お願いです。
 どうか、そんなに僕の名を呼ばないで下さい。
 ジェイ。
 捨てられたものの名。「本当の僕」を否定されたものの名。
 そして、これから貴方達を裏切るものの名。
 ジェイ。
 皆さんが僕の名を呼ぶ為に、決意が揺らぐ。
 打算も裏もない言葉に、何もわからなくなる。





 ジェイ。
 ただの記号でしかない、僕。
 彼らはそんな僕に、意味を与えてくれたんです。
 この名に、意味を与えてくれたんです。
 失いたくないんじゃない。失えないんだ。
 彼らがいなければ、また僕には意味がなくなってしまう。






 ………だから僕は、もう何をすることも厭いません。
 だから、もう、僕の名を呼ばないで下さい。







「なにがあったんでしょうね…」
 気休めだとはわかっていつつもブレスを掛けながら、シャーリィがぽつりと呟いた。地面に横たわっているジェイの表情は非常に厳しい。眉間に刻まれた皺は深く、色の薄い肌は白を通り越して青に近い。
「明らかに、普段のジェイではなかったな」
 腕組みをしながら、むっつりとクロエが呟く。
「なにはともあれ、今はモフモフ族の村に連れて行って休ませてやるのがいいだろう」
 ジェイの額に浮んだ汗をぬぐって、ウィルが言う。皆は一も二もなく頷くと、モーゼスが代表して、ジェイを軽々とおんぶしてやる。
 目が覚めていたら、それだけは何がなんでも抵抗しそうだが、今のジェイが気付く筈もない。言葉少なに手早く荷物をまとめ、モフモフ族の村に向かって歩き出す。
 モーゼスの背に負われたジェイの青い顔を見て、頬に手を当てたグリューネがいつもより少し低いトーンで、ほんわりと言葉を落とした。
「ジェイちゃんが辛そうなお顔してると、お姉さんも辛くなっちゃうわぁ」
 引きずるほどの長いヴェールを揺らした、おっとりとしたグリューネの声が一行の重い感情を、わずかに晴らす。
「…そうだな」
 ぼそっと答えたセネルがふと空を見上げると、洞窟から出た一行の頭上には、灰色の分厚い雲がどんよりとたちこめていた。一辺の隙間もなく、頭上を埋め尽くした雲の端では、微かな雷鳴が鳴り響いている。
 あちらでも、こちらでも。
「…嵐が来そうだな」
 空の端を片目で見やり、ウィルは眉間に皺を刻んで、重々しい溜め息を吐いた。













 本当はジェイノマ風味で書こうとしていたシーンだったのですが…。
 どうしても気に入らなくて、普通の路線で攻めました。ジェイノマに何か進展があるとしたら、ジェイが色々吹っ切れた後かなぁ、と思いますし。

 ジェイ編は痛かったなぁ。クロエ編とは違う意味で。
 これから、2周目のジェイ編なので、楽しみにしてます♪
 ジェイってやっぱり、「J」って意味なんですかね…。

2006.4.15