Blieve





 最後に聞いたのは、耳元で叫ぶシャーリィの声。
 暖かい、母親の胎内みたいな海の中で、俺の意識はぷっつりと途切れた。



 力を使い果たして死ぬとか、滄我に倒されるとか、あの時は全然考えてなくて。
 シャーリィを取り戻す。それしか頭になかった。
 普段は、白とか水色とかの淡い色が好きなシャーリィが、闇みたいに真っ黒な服を着ているのが、すごく綺麗で。氷みたいに冷たい表情と、すらりと細い身体を包む、闇色のローブ。青白い燐光を放つテルクェス。触れるだけで凍え落ちそうな、氷の女神。実は、俺は不謹慎にも、少し見惚れてた。
「お姉ちゃんみたいな、大きなテルクェスが出せればいいのに」
 口を尖らせて、呟いた子供の頃。もう少ししたらね、と笑顔で答えたステラ。"女の子"の顔は俺にも向けてくれたけど、シャーリィにだけ見せた、彼女の"姉"の顔が、俺は大好きだった。シャーリィが大好きで、誰よりも彼女を守りたいと願っていた彼女の優しさは、家族も兄弟も持たない俺に初めての気持ちをくれた。
 ステラが、今のシャーリィを見たら、怒るかな。それとも、泣くかな。…喜びはしないな。いくらシャーリィの成長を喜んでたステラでも。光跡翼の玉座の間を覆い隠すほどのテルクェスを見て、そんなことを考えた。
 いつの間にか、シャーリィはちゃんと大人になってたのに。俺だけ、一人子供で、彼女の気持ちもわかってやれなくて。本当に、情けない。
「貴女の力は、皆を幸せにするためのものよ…」
 最期にそう、シャーリィに告げたステラ。俺がもう少し、しっかりしていたら、ステラの望み通り、シャーリィの力を守ってやれたかも知れないのに。
 後悔は、今更遅い。当たり前だけど、いつだって悔やむのは間に合わない。だからこそ、"後悔"なんだけど。それは、すごく後味の悪いものだから、もうこれ以上は御免だ。




「…信じてるよ、シャーリィ」
 だから。帰って来て。ここに、居て。
 心の底から、君に贈る。
 久し振りに腕に抱いたシャーリィの身体は、ひどく、冷たかった。





 目を覚ました時、セネルはそこがどこだかわからなかった。水に浮いているように、身体全体がふわふわする。おそるおそる薄く開けた瞼を、弱い光が軽く刺した。反射的に目を細めると、逆に周りの様子が見えるようになる。左側から差し込む、弱い月明かり。右側には、薄暗い室内が広がり、サボテンの鉢植えやらウサギの骨格標本やら、蝶の標本やらが所狭しと並べられている。だがそれは、乱雑という状態ではなく、びっしりと几帳面に並べられている。誰の部屋か、一瞬でわかった。ウィルだ。彼の寝室までは入ったことはなかったが、室内を見れば間違いない。このオタクっぷりは彼しかいない。
 瞬きをしながら、ゆっくりと周囲に目を巡らす。自分が寝ているのは、ウィルのベッドらしい。お日様の匂いがする、干したての、ふかふかの布団が身体の上に乗っている。ぐっ、と力を入れて身体を起こすと、思いの外楽に起き上がれた。だるさは感じたものの、それほど辛くない。少なくとも光跡翼の頂上で感じた、生気が全て抜け落ちたような脱力感はない。軽く銀髪を揺らしてふらつきを振り払っていると、足元から微かな声が上がった。
「…お兄、ちゃん…?」
 焦点の合わないレンズみたいにぼんやりしていた頭が、その声で急速に覚醒する。視界に飛び込む蜂蜜色の金髪と、深い深い海の色。セネルの寝ていたベッドの足元で、肘を置いたシャーリィが月明かりに照らされた横顔をくしゃりと歪めた。たちまち、涙が大きな瞳に溜まっていく。思いが溢れて言葉にならない代わりに、溢れる涙が止められない。瞳いっぱいになった海色の涙が零れる瞬間、シャーリィはセネルの腕の中に収まっていた。
「お、お兄ちゃん…?」
 いきなりのセネルの行動に、シャーリィは焦った声を上げた。ぽろぽろと零れた涙が、セネルの肩をしっとり濡らす。セネルは、シャーリィの細い身体を折れるくらいに抱きしめる。いつもと同じ、白いワンピースを着たシャーリィは、いつもと同じセネルの妹で。
 でも、もう前と同じように彼女を見ることは、たぶん出来なかった。
「ごめん…!」
 いっぱい悩ませて、苦しませて、傷つけて。傍にいてあげられなくて、支えてあげられなくて。謝りたいことがいっぱいありすぎて、全部は言葉に出来ないほどだ。
「本当に、ごめん…!」
 強すぎるくらいの力でシャーリィを抱きしめ、セネルは叫ぶ。セネルの膝の上に抱き上げられたシャーリィは、彼が着ている木綿のシャツの胸をぎゅっと握って瞳を閉じ、おもむろに口を開いた。
「…ありがとう、お兄ちゃん」
「シャーリィ…」
「…滄我の怒りは、すごく冷たくて。凍えるくらいに激しい怒りだった」
 玉座の前で抱きしめたシャーリィの身体の、冷たさ。あれは、彼女を占めていた滄我の怒りそのものか。
「でも、あの時、こうやってお兄ちゃんが抱きしめてくれたから。お兄ちゃんのあったかさと、お兄ちゃんの言葉が、私を引き戻してくれたの」
 わずかに身動ぎしてセネルの胸を押し、ゆるんだ腕の中から、シャーリィはセネルの顔を見上げた。幼さの残る顔に、涙と笑顔が同居している。
「お兄ちゃんのおかげだよ。本当に、ありがとう」
 言ったシャーリィは花が綻ぶように微笑んだ。そうして、シャーリィの笑う顔を見るのは本当に久し振りで。乾いた土に、水が急速にしみ込んでいく行くように、その笑顔はあっという間に胸にしみた。
 これまでもずっと傍にいてくれたシャーリィを、今になって更に近くに感じる。
「…これからも、前みたいに、一緒に居てくれる?」
 はにかむようにそう言ったシャーリィに、セネルは一瞬空色の瞳を真ん丸にした。対するシャーリィは真剣そのもので、セネルのシャツを握り締めながら、真っ直ぐ彼を見上げている。数拍の間の後、セネルは、一つ笑みを落とした。
「…前みたいに、は無理かな」
 告げた言葉に、瞬く内に顔色を曇らせるシャーリィ。だが、安心させるように変わらず笑ったまま、セネルはシャーリィの左手に、自分の右手を絡めて抱き寄せる。
 そして、戸惑うシャーリィの額に、不器用な口付けを落とした。
「え…?」
「この気持ちは、妹に対してじゃあないから」
「おおお、お兄ちゃん…?!」
 驚いて口ごもるシャーリィをくすぐったそうに笑い、セネルは額と額をくっつける。
「あれは、水舞の儀式だよな?」
「う、うん」
「じゃあ、そういうことだ」
 余裕そうに言いながらも、セネルの顔も明らかに朱に染まっていて。びっくりしていたシャーリィにも、段々セネルの気持ちが伝わってくる。
「…信じられない」
「ん?」
「こんな風に、お兄ちゃんと向き合える日が来るなんて」
 セネルに負けず劣らず頬を赤くしたシャーリィが、ぷっ、と吹き出した。ほんの十数時間前は、セネルと触れ合うどころか、彼やすべての陸の民の死を願い、それを体現する存在として君臨していたのに。状況の転がり方が早すぎて、これは夢ではないのかとすら思ってしまう。
 白い月明かりの下、シャーリィの蜂蜜色の髪も、セネルの銀髪も、それぞれの輪郭も、全てがいつも以上に鮮やかに浮かび上がる。繋いだ右手と左手の指が絡んでいるのが、恥ずかしい筈なのに、今はまったく気にならなかった。
「…そうだな」
「うん…。ありがとう、お兄ちゃん」
 微笑んで、シャーリィが自分から額を押し付ける。その仕草の可愛さに、益々セネルの笑みが深くなった。目を合わせては、とにかく幸せで、どちらからともなく声を上げて笑う。
「なぁ、シャーリィ」
 ひとしきり笑い合った後、不意にセネルが真面目な顔をして切り出した。
「何?」
 笑いの余韻が残っているシャーリィは、無邪気な顔をして訊ね返す。セネルの空色の目は、不思議なくらいに真剣で。シャーリィは、きょとん、と瞳を丸くする。
 意を決したセネルは、シャーリィの耳元で一言短く囁いた。
「…えぇ?!」
「駄目か?」
 一気に顔の朱が深まるシャーリィに対し、セネルは非常に残念そうな顔。
「もう…」
 頬を膨らませ、シャーリィは口ごもる。嫌な訳はない。ただ、いきなりそう言われても出来るかどうか。これまでずっと、セネルは「兄」だったのだから。
「…すぐには、慣れないよ?」
 困ったように笑いながら、シャーリィが言う。勿論、それに異論などないセネルは、ぱあっと表情を輝かせて大きく頷く。
「いいよ。ゆっくりで」
「うん」
 お互いに、赤い顔を見合わせてくすりと微笑み合うと。
「…好きだよ、シャーリィ」
「…私も」



 長い沈黙の間、期待の目一杯つまった優しい視線が、揺らがずに注がれる。色白の肌を真っ赤に染め、ひたすら照れながらも、シャーリィはセネルの視線を外さずに答えた。
「……ね、セネル」





 その晩二人は、離れている間の出来事を夢中で話し合った。
 太陽が昇って、我慢出来ずに寝こけてしまうまで。
 翌朝、様子を覗いた仲間達は、ベッドに寝ているセネルと、傍で椅子に座って寝ているシャーリィが、しっかり手を繋いでいるのを発見し、満面の笑顔をにやにやと見合わせていた。








湧いてました。色々と(笑)
書いてる途中、痒くて痒くて仕方がありませんでしたことよ。
同じこういうシーンでも、ゼロリフィならそれほど恥ずかしくないだろうに(笑)

念願のセネシャリが書けて幸せでした。
でも、この後すぐには名前で呼べなくて、「呼べない少女」なのです(笑)
2005.10.22