あまやどり
頭の上に広がる空は、果てしなく澄んで、息が止まるくらい、青かった。
石畳も敷かれていない砂利道を、彼女はスキップ混じりで歩いていた。ブーツの底で踏みしめられた小石が、刺々しい音を立てて爆ぜても、彼女の浮かれた気分はちっとも覚めない。
鼻歌を歌いながら、右手に提げた麻の袋を、いっそう元気に振り回す。
青というには、やや淡い空色の髪を揺らし、アンジュは、軽い足取りで夏の陽射しの下を歩いていく。大抵の場合、実際の年齢よりも年上に見られがちなアンジュだったが、、この時ばかりは、実年齢よりも、ずっと幼く見えるほどにはしゃいでいた。
だが、無邪気に小石を蹴飛ばして、アンジュは思う。
(こんな良い日に、浮かれない方がおかしいわ)
無意識のうちに、本を抱えた左手に力がこもる。
遠くの森からは、セミの鳴き声が聞こえる。
長い冬に一年の半分以上を覆われるこの辺りでも、短い夏は確かにやってくる。
周回遅れでやって来た春があっという間に過ぎる頃には、乾いた夏が通り過ぎ、気付けば何処よりも早く秋の気配を感じて、長い長い冬に入る。
息が出来なくなるほどに押し潰されるように深い、この辺りの冬が、アンジュは好きだ。
野良仕事なんて出来ないから、村人達はみんな、毎日家に閉じこもったり、教会に集まったりして、日がな一日お喋りしたり、篭を編んだり、吟遊詩人のお伽話を聴いて過ごす。
こんな、ゆったり流れる時間を楽しめる場所なんて、そうそうない。
ナーオスも勿論大好きな故郷だけれど、あの男に誘われて北の地まで着いて行ったのは、あの銀世界に住めると思ったから、というのもある。
折角テノスまで招いたのに、意気揚々と田舎に引っ込んでしまった彼女に、あの男は随分しょげ返っていたけれど。彼女は束縛されるのが嫌いだったし、堅苦しいのもごめんだった。
(そりゃあ、あの素敵なご飯は、大分後ろ髪を引かれたけどね)
そう呟き、彼女は明るい顔を上げた。
見た目とどうにも反することに、彼女の行動の第一理由は、大方の場合、食事とお酒だった。
彼女がいたく気に入っているこの村は、都会っ子の仲間達には、揃いも揃ってイヤがられたけれど。自分がどうにもオバさんくさいことは、よく分かっていたので、今更ちっとも気にしない。
真っ直ぐ続く砂利道の先に見えるのは、今のアンジュの住まいである古びた教会だ。昔、ここがもう少し栄えた村だった頃は、この砂利道も整備されて、街路樹が整然と植えられていたというけれど、もう、そんな面影は何処にもない。村の広場から真っ直ぐ延びる道の両脇にはぼうぼうと縦横無尽に育った木が立ち並んでいた。
(それにしたって、あのボロ教会に、よく住めるようになったものよね)
初めてこの教会を見た時は、あまりの荒れっぷりに幽霊城と見紛うばかりだった石組みの塔も、村人みんなで直してくれて、すっかり綺麗になった。
毎週の説教にも多くの人が集まってくれるし、冬場はよく吟遊詩人が宿を借りにも来る。
(本当に、ここに住んで良かったわ)
その、快適な自分の家が視界の中に入った時。
ぽつり、と生暖かい雫が、アンジュの頬を打った。
「あら、雨かしら」
慌てて見上げた空には、真っ白い大きな雲が浮いているだけ。だが、アンジュは、この季節のああいう雲が、たちまち真っ黒になって、激しい雨をもたらすことを知っていた。
走るのは好きではないけれど、荷物を濡らしたくなかったので、アンジュはぱっと駆け出した。
* * *
この小さな村を訪れるのは、もう彼の習慣になっていた。
あるかなしかの小さな木の柵を抜けると、もうそこは村の内側だ。
他の地方に比べれば随分涼しい夏の気候も、ついこの間まで彼が居た北方の島と比べると、随分暑い。適度に乾いた涼風を頬に浴びながら、人通りの少ない村のメインストリートを進んでいく。
常人より、優に頭一つ以上高い背も、夏でも脱がない漆黒のコートも、目つきが悪い、と称される切れ長の瞳も、何もかもがこの田舎の村では目立つ。
だが村人達は、この異様な旅人の正体を知っていた。四つ角で擦れ違った農家の若い娘が、男の姿を見つけて顔一杯に笑顔を浮かべて声を掛けてきた。
「あっ、リカルドさん。お久しぶりです。聖女さまなら、さっきちょうど買い物にいらっしゃってましたよ」
明るい娘の声に、男が無言で立ち止まる。その強面に怯むかと思いきや、娘は返事がないことにも頓着しない。畳み掛けるように言葉を続ける。
「ほら、月に一回、都からの行商の人が来るでしょ? 何だか、こーんなに分厚い、難しそうな本を買ってました」
「…そうか」
やっぱり、聖女さまはすごいですよねー、と暢気に笑う娘の脇を擦り抜け、男は真っ直ぐ村の一番奥、古びた教会がある方へ向かって行く。
「リカルドさーん! うちの父が兎を1ダースも仕留めたんですー。お裾分けもらいに来て下さい、って聖女さまに伝えてくださーい!」
男は振り返らず、ひらりと右手を振って、娘の声に応えた。最初の頃は、鬱陶しいと思っていた、お節介な村人達の態度にも、すっかり慣れた。
そんなことを言ったら、彼女がここぞとばかりに、ほれ見たことかと笑うだろうから、決して口には出さないけれど。
古いけれど、がっしりとした石の家の屋根が連なっている向こうに、とんがった教会の尖塔が見えた時。
日に焼けた肌を、生温い水が叩いた。
たちまち、桶を引っ繰り返したような雨が、乾いた地面を猛烈に叩き始める。
見上げた空はまだ青く、白い大きな雲だけが、ぽかんと一つ浮かんでいた。
舌打ちをして、教会の方に走り始めると、途中の家の玄関で、洗濯物を取り込みに出て来た雑貨屋のおかみと、ばったり出くわした。
「おやリカルドさん! 雨宿りしてくかい!」
「いや、結構だ」
おかみの親切に短く答え、リカルドは走る速度を緩めずに、豪雨でけぶった村の中を真っ直ぐ横切って走り去っていく。
その長身が白い雨の中にすっかり消えた頃、おかみの後ろから、気の良い笑顔の雑貨屋の主人がひょっこりと現れる。
「なんだ、リカルドさん、っつったか?」
「ああ。久し振りだねぇ」
「こんなヒデェ雨なんだから、雨宿りしてきゃ良かったのによ」
おかみの肩越しに外を見上げ、主人が呆れたようにぼやく。
軒先から、鉄砲水のように水が溢れ、まるで滝の中にいるようだ。
旦那の言葉に、地面を打つ激しい雨の音にも負けないくらいの大声でおかみは笑い、もう見えなくなった長身を、にやにやと口の端を歪めて笑い飛ばした。
「雨なんか屁でもないくらい、一刻も早く顔が見たいんだろうさ」
おかみのその言葉に、旦那も負けじと口の端を引き、意味ありげに頷いた。
「まったく、だからいつも言ってんだよな。『そんなに心配なら、早くくっついちまえ』ってさ!」
ずぶ濡れになって走る男の内心には、まったく気を止めず、暢気な田舎の夫婦は、自分達の言葉に大笑いしながら、通り雨から逃れるべく、固い石の家の中に戻って行った。
* * *
教会を、真っ直ぐな道の向こうに捉えたところで、リカルドは我慢出来ずに近くの木立の下に避難した。
ぐるりと全身を見回すと、雨の中に居たのはほんのちょっとのはずなのに、文字通り全身ずぶ濡れである。
髪が吸った雨水が、一筋額に垂れてくるのを、無造作に拭う。
空は相変わらずそれほど暗くないのに、雨の気配は益々強くなるだけだ。
梢の間から漏れる雨水が、ぽつりぽつりと頭を叩く。
(仕方がない)
嘆息し、荷物の中から水を弾く油を染み込ませた、雨用のマントを取り出す。濡れた後は手入れが必要だからあまり使いたくはないが、教会の目と鼻の距離で、いつまでも雨が止むのを待っているのもバカバカしい。
木の下を出ると、たちまち強い雨が革のマントをばらばらと叩く。
雨が嫌いな訳ではないけれど、こうもナイスなタイミングで降られると、自分の普段の行いを振り返ってしまう。そんなに、悪いことをしているつもりではないのだが。
特に、昔に比べれば。
その言葉に、思わず自嘲の笑みが滲む。
あの頃の職を“悪いこと”と思ったことなど一度もないが、今していることが、あの頃の自分と掛け離れているのも確かだ。当時の、あの子供達に会うまでの自分が見たら、鼻で笑われるに違いないくらいには。
明るい土砂降りの中、マントで視界が狭められているにも関わらず、彼がそれに気付いたのは、果たして何故だったのか。
足早に教会に向かって進んでいたリカルドが、不意に足を止めた。
何か、音がする。
音というよりは、声に近い。少女というよりは地に足がついていて、少年というよりは甘やかな。高い、澄んだ、声。
(こんな、雨の中で?)
訝しげにぐるりと回そうとしたリカルドの首は、その一番初めの時点で、ぴたりと止まった。
暢気に鼻歌を歌う人間の正体を、真っ正面から捉えたからである。
一瞬、唖然と立ち尽くし。その一呼吸後に、足をそちらに向ける。砂利道の左右に鬱蒼と生い茂る樫の木立の下で、緊張感の欠片もなく、雨宿りをしている人間の方へ。
すぐ目の前にいるのに、彼女は顔も上げない。膝の上に開いた本の上に、目を真っ直ぐ落としたままだ。
嘆息し、リカルドは厚い革のマントの下でむっつりと両腕を組み、憮然と口を開いた。
「…何をしているんだ」
* * *
「…何をしているんだ」
いきなり頭上から響いてきた声に、アンジュが固まったのは、ほんの一瞬だった。
強い雨の音が背景になって聞き取りにくくても、その声を間違える訳がない。
わざとゆっくり本の間に栞を挟んで、空色の瞳を見上げると、砂利道の端っこに、全身にマントをすっぽり被った長身の姿が視界の中にいっぱいになる。
目深に被ったマントの内側の表情はよくわからないけれど、呆れていることがわかって、アンジュは何だかおかしくなった。
あえて、とびきり澄ました口調で、短い問いに答える。
「読書です。見てわかりませんか?」
「…どうしてこんなところで読書をしているのか、聞いたつもりだったのだが?」
「だって、雨が降ってきたんですもの」
口を尖らせ、アンジュはさも当然と答えた。
「大事な本を濡らしたくないですから」
アンジュが胸を張ると、初めて男が薄く笑った気配がした。
「大事な本というのは、そっちの分厚い聖書じゃないのか」
アンジュの足下の地面に無造作に転がしてある分厚い本を指差しながら、リカルドがおかしそうに言う。樫の大木は立派な枝振りで、この土砂降りにも、ほとんど頭上から雨水が滴って来ない。とはいえ、いくら頑丈な革張りの本でも、湿気を吸った地面に転がされては不憫だ。
「あら、大事ですよ。でも、この場合、優先度の問題です」
膝の上の本を大事に抱え、アンジュはにっこりと満面の笑みを浮かべた。
その表紙には、リカルドも朧げに見覚えがあった。
「聖職者がそんな本を読んで良いのか」
悪戯っぽく訊ねると、アンジュはいそいそと立ち上がりながら、暢気に、いつもと同じのんびりした口調で笑った。
「聖職者っていうものは、平たく言えば、近所の頼れる何でも屋さんですよ。地域の皆さんと、いつも話題が合ってなくちゃならないんです」
近所のオバさまとの話題が、いかに俗っぽいものなのか、アンジュの腕の中に大事に抱えられている、今王都で人気の官能小説のタイトルから察せられて、リカルドは呆れながらも吹き出しそうになる。近所のオバさまとの会話も勿論なのだろうが、説教好きで知識も深いこの聖女が、いかにこの手の俗っぽいものが好きか証明しているようでおかしくなる。
住む場所は、食べ物とお酒の美味しさで決めるわ、予想外に手癖が悪いわ。
そのギャップこそが、彼女の良さである訳だけれど。
そんなことを考えて、一人で思わず笑っていると、少し離れた木立の下で、アンジュがしきりに手招きしていた。
「何だ?」
「何だ、じゃないですよ。このままじゃ教会に帰れません。入れて下さいません?」
のこのこ寄ってきたリカルドのマントの端をがっしり掴み、アンジュはにっこりと柔和な顔に、満面の笑顔を浮かべた。
だが、アンジュの言葉の意味を計りかねたリカルドは、フリーズしたまま、呆然と問い返すのみ。
「…何だって?」
「そんなに聞き返さないで下さい。雨に濡れたくないから、マントをちょっとお借りしたいだけです。駄目ですか?」
にこにこと長身を見上げて笑う聖女の青い瞳は、真面目そのもの。
おまけに、彼が断るなんて思ってもいないのだろう。右手がしっかりマントの縁を握っている。
こうなったら、折れるのは間違いなく自分しかいない。
「…足下は多少濡れるぞ」
「大丈夫です。荷物が濡れなければ」
リカルドの白旗が揚がるのと同時に、アンジュはぱっと表情を弾ませ、間髪入れずに、もぞもぞとマントの中に滑り込んできた。アンジュもそれなりの身長はあるが、リカルドはそれより頭二つは大きい。アンジュはリカルドの肩までもないから、マントの中にすっぽりと収まってしまった。
通り雨が降っているとは言え、この夏の暑い日に、自分達は一体何をしているのだろう。マントの中で、どうしても触れてしまうアンジュの体温に落ち着けないでいると、下から彼女がひょっこりと頭を出した。
「では、行きましょうか?」
木立の外に出ると、再び雨粒がマントを激しく叩く。
アンジュが濡れないように気を遣いながら、もうすぐ近くまで見えている教会が、今すぐ目の前に移動してきてくれないものかとやきもきしていると、マントの中でアンジュが何か小さく呟いた。
「何か言ったか?」
低い、滑らかなテナーでそう訊ねると。
マントの隙間から視線を上げたアンジュは、ふるふるっと首を左右に振り、弾んだ口調で答えた。
「いえ、リカルドさんが来てくださったお陰で助かりました。ありがとうございました」
「…ついでだ」
憮然と答えたつもりの自分の声が、拗ねたような響きになっているのが悔しくて。
顔を上げた後、教会に着くまでの短い間、リカルドはただ雨音を黙って聞いていることしか出来なかった。
(雨が降って良かった)
思わず口から出た言葉をいつもの穏やかな笑みで誤魔化し、蒸し暑いマントの中で、アンジュは肩を震わせて笑った。
見えない彼の表情なんてね手に取るようにわかる。
取っつきにくそうに見えて、何だかんだお人好しで、世話好きな癖に、自分では絶対にそんなこと認めない。
(面と向かってなんて、まだ、言ってあげないわ)
教会までの短い距離を、少し恨めしく思いながら、アンジュは再びスキップしそうな浮かれた気分で、水溜まりを蹴飛ばした。
2008年夏コミにて無料配布したリカアン風味なお話。
相変わらずちっとも甘くない(笑)
アンジュはあれでいて生臭聖女様だと思うので、官能小説とか大好きで、地元のおばさまとかと昼下がりに大盛り上がりしてそうなイメージ(笑)
さっきまで神妙な顔して懺悔聞いてたじゃん!みたいな(笑)
リカルドは、一見そうとは見えないんだけど、「あれ何気アンジュの手の平で転がされてる?」的な雰囲気が漂う程度が良いと思います(笑)
やはり、頭の良い、大人な二人だと思うので、そういう距離感が良いですねー、リカアンは。
2009.09.28
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