今夜、君の声が聞きたい





 人っ子一人いないホールが、いつもラクスの遊び場だった。
 彼女の歌が大好きな大勢の人達へのプレゼントがコンサートなら、歌を歌うことが大好きな彼女へのプレゼントが、コンサートが終わった後のホール。
 彼女の穏やかな表情は、普段以上に明るく、内側から滲み出るような笑顔に染まっていた。
 ホールは、がらんと大きな口を開け、全ての音を吸い取ろうとしているようだ。座席に人間が座っていると今にもはち切れそうに見えるのに、いざ誰もいないホールに立ってみると、あまりの広さと空虚さに戸惑う。音にさらされることを前提としている空間は、無音すらも吸い取ろうとして、耳の奥がぼおんと鳴った。
 そんな、底なしの怪物の腹に響くのは、天上の歌声。
 ホールいっぱいの観客へ贈られた歌も、観客のいない今は彼女自身のもの。ただ歌うことが大好きな、自分のために歌う歌。
 ラクスは元々、上手く歌おうとか、失敗をしないように神経を傾けるとか、そういうことを考えながらコンサートに向かっているのではなかった。自身の想いが伝わるような、聴いた人に何か残るような、そんな歌が歌えればいいと思っていた。そして今は、自分のためのステージ。それさえも忘れて、自分が楽しむための時間だった。柔らかい空色の瞳を閉じて口ずさむのは、歌と言うよりただのメロディそのもの。
 ステージ中央の椅子に座った彼女は、そのままの姿勢で澄んだ歌声を上げていた。スポットライトが舞台中央を明るく浮かび上がらせるほかは、両袖とも真っ暗だった。強いライトが濃い光を作り出すと、同時に濃い闇も生まれる。袖にそっと近寄る影があったが、彼女は構わず歌っていた。
 それが誰かは、わかっていたから。
 影はどんどん寄って来て、彼女の隣でぴたっと立ち止まる。彼女は、メロディを楽しむのを止めて、隣に立った青年を見上げた。
「ごめん、邪魔しちゃったね」
「いいえ。大丈夫ですわ」
 両膝の上に手を揃え、お行儀良く座っていたラクスが、ピンクの豊かな髪を揺らしてにっこり笑うと、両手に荷物を抱えたキラが、同じように笑い返した。
「冷えるよ」
 ホールの中は暖房が効いているが、ラクスは薄いレースとシルクの、羽根みたいに軽い、純白と空色のステージ衣装のままだ。差し出された上着を、有り難く纏った。
 そして、続けてキラが差し出したものを見て、小さく歓声を上げる。
「まぁ!ありがとう、キラ!」
 ほかほかと湯気を立てる耐熱グラスを、ラクスは本当に嬉しそうな様子で受け取る。茶色に透き通ったそれは、彼女がコンサート後に必ず飲んでいるものだ。お好みの紅茶に、蜂蜜と、カリン酒と生姜、それに数種のスパイスを入れて作る、特製ドリンクである。身体も暖まるし、何より喉に良い。以前、興味津々で一口もらったキラは、ぶふっと吹いた後「…不思議な味だね」と答えてラクスに膨れられたが、ラクスはこの飲み物を何より気に入っていた。
 うきうきしながら、熱い中身に悪戦苦闘しているラクスを見下ろして、キラはくすりと笑いを漏らした。
「今日はお疲れ様」
 両手でカップを支え、ラクスは緩く首を横に振る。髪に留められた金色の髪飾りが、その動きに合わせてしゃらしゃらと鳴った。
「わたくしだけではないですわ。キラや皆さんもお疲れ様です」
 ラクスのコンサートは、いつでも何処でも超満員。しかも、決まった公演料は取らずに、寄付という形でのチケット代なので、それこそ押し寄せてくる人間は星の数だ。
 加えて今日は12月24日のクリスマスイブ。絶対いつも以上の混雑が見込まれるだろうと、予想してはいたのだが、正直言って、目が回るほどのてんてこ舞いだった。いつも以上の観客を、えっちらおっちらホールに詰め込んで、整理して。実際、観客の整理係は公演が始まった途端、安心して倒れてしまったほど。キラもラクスも直接そっちの仕事に関わることはないものの、皺寄せと熱気は自然と伝わる。
「でも、2時間、かなり長いでしょ」
「まあ、あっという間ですわよ。終わってしまうと、あれも歌いたかった、これも歌いかったって、そんなことばっかり」
 くすくすと、口許を押さえて歌姫は笑った。彼女の場合、それは間違いなく心からの台詞だった。そんなラクスの表情を見て、キラは愛しそうに微笑すると、すっと彼女の前に手を差し出した。
「元気の出るもの。何だと思う?」
 悪戯っぽい笑顔と共に差し出されたのは、ごくありふれた一つの封筒。B6の、無地の白い封筒だ。宛名は手書き。名はラクス・クライン様になっている。しかも、ご丁寧にも、このホテルに直接宛てたエアメイルだった。
「わたくしに?」
 きょとん、とラクスはスカイブルーの瞳を回した。
 仕事柄、ラクスは手紙をもらうことが多い。特にコンサートの後は、花束と一緒に大量の手紙をもらう。その一つ一つを大切に読んでいるが、こうしてキラがそのうちの一つを差し出すのはとても珍しいことだった。
「うん。正確には、ラクスと僕にだけど」
「まあ。どなたでしょう?」
 封筒の裏をくるりと返しても、名前はない。だが、このキラの口調からすれば、いたずらや差出人不明ではないはずだ。もう一度宛名を見ようとひっくり返し、そこでラクスも気付いた。手紙の消印の場所と、宛名を書いた字に見覚えがあることに。
「まあ、アスラン?わざわざお手紙で?」
 ラクスも見たことのある字は、彼女の元婚約者アスラン・ザラの几帳面な字。そして、封筒の前面に押された消印は、現在の彼の在所である、オーブのものだった。
「しかも、今日、このホテルに着くように手配してるんだ」
「マメですわねぇ」
 しみじみと噛み締めるように、二人揃って呟く。これはある意味感心しているのである。アスランは、ラクスのスケジュールを承知しているから、わざわざホテル宛に手紙を出したのだろう。とりあえず、二人を驚かしてやろうという心意気は、成功したようだ。
 中身は何が入っているのやら、何やら分厚い束があるようだ。だがこうして二人の手元まで届いている以上、危険物の心配はなさそうだ。ラクスはぺらりと封を切った。
「あら、写真ですわ」
 開けるなり、束の正体はすぐにわかった。封筒から十数枚のスナップ写真が現れる。その上には、白い、これまたシンプルな便箋が折り畳まれた状態で、二枚乗っていた。
 キラに便箋を渡し、ラクスは写真をめくり始める。写真は、マルキオの孤児院で撮られたものらしい。アスランとカガリが並んでいるものから、キラの母のカリダ、マルキオ導師、そして子供達と、いずれもクリスマスの装飾が施された孤児院の中だ。楽しそうにはしゃいでいる様子の写真が、十数枚続いていた。
 彼が映っているものはカガリと並んでケーキを頬張る写真のみで、他には映っていない。手紙を送る段階で、自分の情けない姿の写真は抜き取ったに違いなかった。
「…懐かしいですわね」
 変わらず元気そうなカリダにマルキオ導師、随分と成長した子も見たことがない子も、やんちゃそうな子供達。
 そして、しばらく会っていない友人達。
「本当に、お久し振りですわ…」
 多忙なのはお互い様だ。
 メールはよく交わすが、直接会ったのはいつだろう。そもそも、オーブに帰ることすら、近頃では稀で。写真の中の、素顔の彼らの表情が愛おしい。政治家の顔をしていないカガリの笑顔に、ラクスもつられて瞳を細めた。
 便箋を読み終わったキラが、ラクスの肩越しに彼女の手元を覗き込んだ。
「皆元気そうだね。…良かった」
「でもカガリさん、少しお痩せになったみたいですわ。ご無理なさってなければ良いのですけれど」
「確かに…。母さんはおかんむりだろうな。『こんなに細くなっちゃって!』とか言って」
「『さぁ、しっかり食べて、しっかり太らなくちゃ!』ですわね」
 初めてカリダに会った時に、言われた言葉を思い出して、ラクスはころころと笑った。女の子はふっくりしてるくらいが可愛いのよ、が彼女の持論である。
 激務で痩せたカガリが、彼女のご馳走攻撃に晒されたであろうことは間違いなさそうだ。
「しまいには母さん、カガリだけじゃなくってアスランにも言い出してそうだ」
「そうですわね。『おばさんは、この緩んだ分を元に戻すのにどれだけ絞らなきゃいけないのかわかってないんだ』って嘆いてましたもの」
 1度気を抜いた筋肉を、万全の状態に戻すのには思ったよりも訓練が必要だ。軍人時代ならいざ知らず、今では身体を鍛えるにも時間という限界がある。出来れば身体を鈍らせたくないアスランにとって、カリダのご馳走攻撃は恐怖である。もっとも、最終的には、彼女の押しと料理の美味しさに負けてしまうだけに、抗議に説得力はなかった。
「案の定、母さんにたくさん食べさせられたみたいだよ。ほら」
 吹き出しそうになるのを堪えながら言って、キラが便箋を差し出す。写真と交替で手に取ると、その文面に目を走らせた。
 相変わらずの生真面目な口調で、二人の様子を気遣い、近況を伝える文章が並んでいる。12月に入ったばかりの頃に、早めのクリスマス休暇を取ったこと。マルキオ導師の孤児院に行ってクリスマスパーティをしたこと。二泊二日の滞在期間で、軽く1〜2kgは太って(よっぽど食べさせられたらしい)途方に暮れていること。カリダもマルキオも、子供たちも皆、キラとラクスに会いたがっていること。こっちは病気も怪我もなくやっているが、いつもの如く、山のような仕事に追われていること。
 一番最後の数行だけは、明らかにアスランのものとは違う筆跡だった。彼の几帳面な字とは違う、ざかざかっと書かれた、少々型破りな字で、「身体には気をつけろよ!」と「Merry Christmas!よいクリスマスを!」と走り書きしてあった。そのすぐ下の隙間には、カガリ・ユラ・アスハの署名、これまたそのすぐ下にはアスラン・ザラの名前が並んでいる。どうやら、アスランが書いた手紙に、カガリが後から一言、自分の分を書き加えたものに違いなかった。
「明日はクリスマスですものね。そういえば、わたくし、何のプレゼントも準備してませんわ」
 今年は忙しくて、外に買い物に行く時間もほとんどとれていないので、しょうがないと言えばしょうがない。だが、口を尖らせる彼女はとても悔しそうだった。
「ラクスが忙しかったのは皆知ってるよ」
 ラクスの後ろに立ったキラが、宥めるように彼女の両肩に手を乗せて、困ったように小さく笑って言った。拗ねられてしまうのは困るが、それは仕方のないことであったから。ピンクの頭のすぐ横で囁く優しい声に、ラクスはちょっと瞳を細めたが、笑顔を引っ込めすくっと立ち上がった。
「そういう問題ではありませんの!」
 ピンクの髪を振り、ラクスはキラの前に立つと彼の瞳を真っ直ぐ見上げて口惜しそうに言った。
「わたくし、皆さんに差し上げるものは勿論、キラにも、何もご用意していませんわ」
 頭のてっぺんに結い上げられたピンクの髪が、ラクスが喋るたびにさらさらと揺れる。髪を結った白いレースのリボンが、幅広の袖をドレスの裾を飾る細かなレースが、ひらひらとキラの視界を行き来する。
 実を言うと、キラの方はラクスへのプレゼントはちゃんと準備していた。部屋に戻れば置いてある。だが、この場でそれを言うのは危険な気がした。
 口をへの字に結んで、ラクスはふっと身体の力を抜いた。これが我侭だということは十分承知している。この道を選んだのは自分で、それを後悔しても始まらず、また後悔するつもりもないことも。だが、時には割り切りたくない時もある。
 皆の前ではいつも穏やかで凛としている彼女だが、キラの前では天真爛漫な素顔がのぞく。くるりとキラに背を向けて、ホールの天井に目を向けると、その横顔には淡い憂いが薄いベールを下ろしていた。
 スポットライトに照らされたラクスの白い頬を見つめて、キラは努めていつも通りの声で言った。
「じゃあ、ラクスの歌が欲しいな。プレゼント」
「わたくしの、歌?」
 訝しげに、ラクスが振り返る。
 歌ぐらい、いつも行動を共にしているキラならしょっちゅう聞いている。一体どういうことかと訊ね返すラクスに、キラはふわりと笑んで答えた。
「ラクスの歌は、いつも皆のものだから」
 このようなコンサートやメディアだけではなく、彼女が歌を歌う時はたいてい、「彼女の歌を聴く全ての人に」向けられている。彼女の歌を聴く全ての人へ、平和と平穏を、優しさと愛しさを祈り、伝える。そのために、彼女は歌う。
 だからそれは、キラのためでもあると言えるけれど、キラのためだけではないとも言える。
「今日は僕だけ。君の歌が聴きたい」
 ね、目の前の青年の笑みを湛えた真剣な目に、瞳を白黒させる歌姫の姿が映っていた。
 一瞬の後、彼女の顔に、艶やかな笑みが浮かぶ。
「わたくしはいつでもあなたのために歌っていますわよ?」
 柔らかなスカイブルーの瞳をすがめて、歌姫は極上の声でさえずるように答えた。
 彼女が平和を歌うのは、この優しい青年のため。彼はもう二度と、この世界で起こった争いから目を逸らすことはないだろうから。一たび何か起これば、もう迷うこともなく、必ず自分の役割を果たしに行くのだろうから。
 そして自分も、そうなったら、もはや何も見ずにいることは出来ない。
 だから、平和を歌う。争いが嫌いだから。青空の下の平穏が好きだから。
 そして祈る。このままでいられるように。キラが、自分が、もう誰も撃つことのないように。誰かに撃たれて、失う不安を味わうことのないように。笑って、日々を過ごしていけるように。
「ダメ?」
 ラクスの顔色を心配そうに窺うキラに、歌姫は小さく笑んだ。
 するりと羽織っていた上着を脱ぎ捨てると、ふわりと身を翻して2、3歩進み、レースとシルクの衣装を広げて振り返る。
「いいえ」
 真っ直ぐ上げた顔の、スカイブルーの瞳が明るく輝いていた。
「キラが聴きたいと言ってくれるなら、わたくし、いつもの倍は気合いが入ってしまいますわ」
 歌姫はレースの衣装の裾をつまみ上げてたおやかに一礼すると、キラの手を取り、舞台の上の椅子に座らせた。
 桜色の爪の先、豊かな髪の房の先、純白と水色の衣装の裾。意識の通わない、全てのものの先まで、歌姫の優雅さが染み渡っているようだった。
 スポットライトの中で、今にも笑い出しそうに華やかに微笑むラクスの視線と、期待のこもったキラの笑顔が交差する。もう一度、ふわりと腰を折り、ラクスは顎を引いて顔を上げた。閉じた瞳に、スポットライトが長い睫毛の陰を落とす。固唾を飲んで見守っているような静けさの中、歌姫は厳かに空色の双眸を開いた。




  Silent night, holy night!
  All is calm, all is bright.
  Round yon Virgin, Mother and Child.
  Holy infant so tender and mild,
  Sleep in heavenly peace,
  Sleep in heavenly peace.




 最後のワンフレーズが長く長く、ホール中に反響する。壁を、床を、天井を。そして、たった一人の観客の耳と心を。歌姫の天上の歌声が揺らしていく。
 宙に溶けるように、最後の声が消えると。
 歌姫は、再び優雅に一礼した。衣装の裾をつまみ、すらりとした腕を流れるように伸ばして。そして、歌うように祝福を述べる。
Happy Merry Christmas!クリスマスおめでとう!
 たった一人の観客は、立ち上がると歌姫に惜しみない拍手を送った。満面の笑顔と感謝と一緒に。笑顔のラクスの左手を取り、キラが照れくさそうに感謝の言葉を告げる。
「…今までに貰った中で、最っ高のクリスマスプレゼントだよ」
 賛辞をありがたく受け取り、ラクスは自分の左手を取るキラの右手に、するりと腕を絡めた。
「じゃあわたくしも、キラからのプレゼント、楽しみにしていますわね」
 にっこり。鮮やかな笑顔を花開かせて。
 大丈夫だよな、と一瞬固まったキラの表情を見て、歌姫は涼やかな声を上げて笑った。








 本命その2。ようやくようやく本命2です(笑)
 種デスED後ですが、もうスペシャルの内容は気にしないで下さい(笑)
 私にとってのED後ラクスは、平たく言えばNGO活動的なことをするのかなぁと思ってたので、そんな感じです。まさかあんな大それたことになっていようとは(笑)
 キララクは何となくラブラブが書きやすいです。書いてて恥ずかしくないからかなぁ。
 この二人達に、こんな穏やかで幸せな時が来るといいなぁと願いつつ。


 今年一年の感謝をめいっぱい込めまして。
 (遅ればせながら)Merry Christmas!

2005.12.27