世界中であなただけ





 報告書の山を抱えて居間に入ると、そこには既に先客があった。
 手探りで電気を点け、部屋を見回すなり、カガリは思わず口を尖らせる。
 大きなバルコニーの手前に鎮座する、4人掛けのビロードのソファの上では、見慣れた人物が寝こけていた。報告書を両手に抱え、腰に手を添えると、カガリはすたすたっと猫のように身軽に部屋を横切る。ソファと六人掛けのオークのテーブル、本棚が二つに物置代わりのサイドボードと壁の柱時計。目立つ家具がそれぐらいしかない割に、部屋は随分大きかった。ゆうに10組のカップルがワルツを踊れるほど。クリーム色が基調の、唐草紋様の壁紙と、鮮やかな赤が美しいペルシャ絨毯。少々派手だがセンスは良い内装が、小ぶりのシャンデリアの下に浮かび上がる。部屋の正面のバルコニーからは、淡い月明かりが差し込んで、薄いレースのカーテンの裾を優しく翻していた。
 ばたんばたんと、わざと足音を立てて歩いても、それは重厚な絨毯に吸い込まれて消えてしまう。ソファの前で立ち止まり、カガリは報告書の山をソファテーブルの上にばしんと置いた。その物音に、ほんのわずかに身じろぎしたものの、寝こけた男は目を覚まさない。ソファの後ろに回って、薄く開いたままの窓を閉め、もう一度ソファの前面に戻って来る。それでも、彼は目を覚まさなかった。
 心底呆れた声音で、カガリは深い溜め息を吐いた。
「…私には、ソファで寝るなって、散々言うくせにな」
 肩をすくめると、見た目よりもずっと柔らかいブロンドがふわりと揺れる。
「この、ハツカネズミが」
 呆れた悪態の中に、一粒優しさが混じる。いや、面倒見が良くて、懐の広いカガリのこと。初対面の人間にも優しさを与えることを惜しみはしない。だが、その優しさの中に、ほんの一滴の甘さが含まれる相手と言ったら、一応、一人しかいないのだった。そう。カガリが入って来たのにも気付かず、ぐーすかと寝入っている、彼女の恋人だけなのだった。
 窓から差し込む月明かりに、きらりと輝くブラウンの瞳の先では、非常に寛いだ様子のアスランが、資料を片手に爆睡していた。肘掛に頭を乗せて、無防備に寝ている姿は、思った以上にあどけなさすら覗かせて初めて会った時を思い出させる。敵同士なのは間違いない。そんなのはよくわかった状況だったのに。憎み切れなかったのは、先に寝てしまった彼の、あどけない顔のせいだったのかも知れない。
 懐かしさに、少し笑みを浮かべたカガリだったが、笑顔はすぐに引っ込んでしまった。
「それにしたって、散らかし過ぎだぞ、オマエ…」
 左手を腰に当て、右手でブロンドをがしがしっとかき回す。はぁっ、とカガリはいつもの調子で溜め息を吐いた。
 最初は手に持っていたのであろう、ファイリングされていない資料の束は、寝こけた指の間を滑り、辺り一面に盛大に散乱していた。相当分厚い資料だったらしい。床は、白い紙に埋め尽くされて、足の踏み場もないと言っても良い。仕方がないと拾い始めたカガリだが、しばらくしてその資料を全部並べ直すのにはものすごい手間がいるということに気付いた。
 手元と紙片と、寝ているアスランの顔を交互に見比べて。
 結論はあっさりと出た。床の上の資料を拾うだけ拾い、ソファテーブルに無造作に置く。明日、目が覚めたら自分で直すだろう。逆の場合、過保護なアスランは全部整えてやるのだろうが、いかんせんカガリは整理整頓が趣味ではないクチだった。加えて、アスランがこういうことを人にされるのが好きではないということも承知済みだ。
 珍しくだらしない格好で寝ているアスランに、カガリはやっぱり苦笑を抑えられない。長いソファを占領するように身体を伸ばして、右手にはボールペン、左手にはかろうじて数枚の資料を掴んでいる。半開きになってすーすーと寝息を漏らす口が、これまた随分と情けない姿だった。
 ペンと紙を手から奪い取り、カガリは相変わらず腰に両手を当てたまま、アスランの顔を覗き込んだ。
「おい、アスラン」
 返答はない。
「おーい、起きろってば」
 彼が目覚めていたら、多分冷静ではいられないような距離で、カガリが彼の名前を呼ぶ。しかし、今日のアスランはやけにしぶとかった。喉の奥で小さく唸ると、ごろんと寝返りを打って、蓑虫のように身体を丸めてしまった。
 その仕草に、まるで、十の子供の相手をしているような気分になってきた。
「…しょうがないやつ」
 とうとうカガリは、本格的に嘆息した。柱時計に目をやると、時刻は12時を過ぎている。今から起こして仕事をさせてもしょうがない。ソファから離れて、部屋の左奥の扉に消えると、毛布を抱えて戻って来る。
 アスランに毛布を掛けてやり、カガリはソファの反対側に腰を下ろした。彼には彼の仕事があるように、カガリにもカガリの仕事がある。それこそ、溜まりに溜まった資料と報告書が腐るんじゃないか、というくらいに。
 ぎしっとへこむソファの動きに気を使い、ちらりとアスランの顔を見るが、反対側で寝ている彼に変化はない。カガリはふわりと微笑むと、毛布の端を引き寄せて、自分の膝に掛ける。手元の分厚い資料を繰ると、びっしりと詰まった文面が飛び込んでくる。仕事だし、文句を言うつもりはないが、それでも決して楽しいものではない。自然、字面を追う眉間に刻まれるしわが深くなっていく。
 しばらく字面を追った頃、カガリは顔を上げて、1つ、長く息をついた。月明かりにブロンドがちらりと揺れて、微かに光る。膝を抱え上げて、資料をぱらぱらっと最後までめくってみる。まだまだ、先は長そうだった。
「…まったく。遊ぶ暇もないな」
 遊びたい、なんて。閣議に出たり、議会に行ったり、あっちこっちを表敬訪問に飛び回っている間は、思いもしないけれど。こうして、ふと息をつく静かな夜。ほんの少し、自分のことを考えられる時間が出来てしまうと、今夜の上弦の半月のように、願望も段々と太っていく。
 普通の女の子みたいに、学校に行って、アルバイトでもして、休みの日には友達と遊びに行って。少しだけ、そんな日々にも憧れる。
 …たとえば、今、隣に寝てるコイツ。コイツとも、本当に普通の恋人同士みたいに、メールしたり、電話したり、…デートしたり。
「いや、似合わないな…」
 毛布の向こうの、ダークブルーの頭をちらっと見て、カガリは小さく笑った。そんな姿、まったくもって想像出来ない。コイツは勿論、自分だって。
 朝起きて、二人でぶつくさ言いながらスケジュールをチェックする。揃って閣議に出る日もあれば、お互いに外回りで、そのまま夜になっても会えないこともある。それぞれの諮問会に振り回され、マスコミにも対応し、合間を縫っては書類の作成に追われる日々。諸外国訪問で、2週間も会えないことだって珍しくもない。
 それが、二人の日常だ。
 プライベートな時間なんて、ほとんど取れなくたって。
 普通、恋人へのメールの最後に、「そういえば、来年度予算の諮問会の期日のことだけど」なんて書かない、って言われようが。
「こっちの方が、私たちらしいよな」
 もぞっと、毛布の中に両足を引っ込めると、起きないアスランの足を軽くはたいて。
 カガリは再び、資料の束を膝の上にきちんと載せ直した。かちこちと、柱時計が時を刻む音が、静かな部屋に染み渡る。資料をめくる音と柱時計の音が、きっかり同じバランスで響いていた。
 かちこちかちこち、ぱらり。かちこちかちこち、ぱらり。
 しばらくすると、そのバランスが段々と崩れ始める。
 かちこちかちこち、かちこち、ぱらり。かちこちかちこち、かちこちかちこち、ぱらり…。
 最後に、ぱさり、と軽やかな音がして。
 深夜の広間は、柱時計が時を刻む音と、微かな寝息が満たされるだけとなった。





「…あら?まだ起きてらっしゃるのかしら、お二人とも」
 夜中に目が覚めて、お手洗いにたった乳母のマーナは、廊下の窓から見上げる女主人の居間に、煌々と明かりが灯っているのを発見した。いつもいつも遅くまで仕事をしている彼女だが、こんな時間まで起きているのは珍しい。大抵、無理をしがちなカガリを、彼女に甘いアスランが無理矢理寝かしつけてくれるのだが、今日は一体どうしたのだろう。
 不思議に思ったマーナは、深夜のアスハ邸を主人の部屋まで早足で向かった。人っ子一人通らない豪邸の廊下は、ホラーやサスペンスの舞台にもぴったり合いそうだが、マーナにとっては長年仕えている屋敷である。真紅の絨毯を足音もなく駆け抜け、カガリの居間の重い樫の扉を叩く。
「お嬢様?もう、お休みですか?」
 返事はない。高い天井の廊下に、彼女の声が低く反射する。遠慮も多少はあったが、カガリは彼女の主人という以上に、子供の頃から何でも知り尽くした、実の子のようなものだった。ぎぎぃっ、と扉を押し開ける。
 暗い廊下に慣れた目に、飛び込んでくるシャンデリアの眩しさ。咄嗟に目を細めて部屋の中を窺うと、主人の姿はすぐに見つかった。もう一人、この屋敷の居候とともに。
「あらあらまあまあ」
 ソファの前に立つと、マーナは頬に手を当て、ぷっと小さく吹き出した。
 ビロードのソファで足を伸ばして寝こけるアスランに、その足元で彼の足を半ば踏んづけるように丸まっているカガリ。まるで、幼い兄妹が、仲良くお昼寝をしているような光景だった。
「お二人揃って、まぁ…」
 こんなところで寝てしまっては、風邪を引く。起こしてやろうとカガリの肩に手を伸ばしたマーナは、ふと手を止めた。一瞬、逡巡するように動きが止まる。カガリの寝顔を見下ろして、アスランの顔も見下ろして。
 マーナはいきなりくるりと身を翻すと、部屋の右奥の扉に消え、太い両腕に毛布を抱えて戻って来た。そして、ふかふかの毛布を、猫のように丸まったカガリに掛けてやる。暖かい感触に身動ぎして、抱えた足を少し伸ばしたが、カガリは目を開かない。
 確かに、こんなところで寝ては風邪を引くかも知れないけれど。
 二人揃って、まあ、なんて幸せそうな寝顔をしていることやら。どんな夢を見ているのか知れないが、起こしてしまうのも忍びない。今日はこのままにしておいてやるとしよう。床に落ちている、分厚い資料の束を拾い上げてソファテーブルに載せ、その他床に落ちている小さなゴミ屑などを目ざとく拾い集めると、マーナはするりと廊下に滑り出た。
 微かな寝息を立て、お互いの温もりに安心して寝入っている恋人たちを入り口から見やると、彼女の顔にも、自然と笑みが浮かぶ。
 ぱち、とシャンデリアの電気を消すと、真っ暗に戻った居間には、代わりに半月の月明かりがぼんやりと差し込む。ソファと、アスランとカガリと。三つの影が一つになって、薄暗い部屋の中に浮かび上がった。
「お休みなさいませ」
 いかなる現実にも負けないような、とびっきりの夢を。聴こえる筈がないとわかっていつつも、マーナは小さく呟く。重く軋む扉をそっと引き、最後に残った隙間から中を覗いたまま、彼女はもう1つ囁きを落とした。
「良い夢を」
 ぱたん、と思いの他軽やかに閉まった扉に微笑む。
 そして、どうか。この、穏やかな時に祝福を。
 自室へ戻る彼女の足取りは軽やかで、弾む心は真紅の絨毯に優しく吸い込まれていった。









 2008.3.8 後書き改訂
あんまりラブラブしているより、これぐらいのアスカガが好きです。
二人で並んで、特に会話もなくて、それで落ち着くんだから良いよね、っていう感じのが。
意外と種同人界でそういうアスカガを拝見することが少なかった(っていうかほとんどなかった)のが今でも残念。メジャージャンルにハマっても中身はローカルだった罠(笑)

 
2005.11.13