薔薇の名前





 女神のためだけに捧げられた妙なる歌が、この世に1つの英雄譚を紡ぎ出す。
 それは、死したる者の魂に涙を流す、運命の女神を愛しむ歌。

 滴る薔薇の如き、赤光の女神の物語。





「久し振りだな、カガリ」
 自分の名を呼ぶ声に、廊下を歩き出していたカガリは、ぱっと顔を上げて足を止めた。耳に飛び込んできたのは、腹の底に響くような、深みのある渋い声。優しさの滲んだ調子。
 それは、彼女にとって、最も聞き慣れた声の一つだった。
「キサカ」
 医務室を出た、右手の壁に背を預けていた大柄の男が、のそりと身を起こした。それは、体格のいい男によくあるタイプの鈍重な動きではなく、ゆったりした仕草の中にも抑えられた俊敏さが感じられた。
 見慣れた大男の姿を認めて、カガリは進む方向を変えて彼の前に立った。160センチのカガリと男とでは、ゆうに頭二つ近く身長が違う。自然と、カガリが顔を上げる形になった。
「…元気、だったわけではなさそうだな」
 キサカは、カガリを見下ろして、淡々と呟いた。余計なことは言わず、核心にずばりと切り込む。相変わらずの口ぶりに苦笑で答え、カガリは凛々しい顔を緩ませた。
「…お前も。だが、またこうして会えて、本当に嬉しい」
「…そうだな」
 言って、キサカも彼にしては珍しく、穏やかに笑み零れた。




「…あいつを助けてくれたの、お前だってな」
 目で医務室の中を示し、カガリはちらりとキサカを見上げた。その顔には、安堵と心配が半分ずつ浮かんでいる。
「なに、あれにはまだ働いてもらわねばならん。お前と、オーブのためにな。勝手に死なれては困る」
 と、キサカは強面に豪快な笑みを浮かべた。竹を割ったような、からりとした笑顔だった。
 随分な言い草だが、たぶん本人もそう言われた方が、いっそすっきりするだろう。わかってますよ、と苦々しい顔で答える彼を想像し、ひとしきり忍び笑いを漏らすと、カガリは再び影を落とした声色で口を開く。
「…ベッドの上のあいつを見た時は、流石に、肝が冷えた」
 壁に背を押しつけた俯き加減の表情が、微かに曇る。
 笑顔の再会などと期待していた訳じゃない。敵味方に別れたまま、死ぬことだってあるのだと、わかってはいたが。こんな形の再会になろうとは、よもや思ってもみなかった。
 一言一言を噛み締めるように、どこか厳かな様子でキサカに告げる。
「お前のお陰だ」
「だからそれは気にするな。俺は自分に出来ることをしただけだ」
 カガリの右隣の壁に寄り掛かっていたキサカは、彼女の言葉の真意を計りかね、はぐらかすような優しさで答えた。
 自分に出来ることをする。キサカの言葉を舌の上で転がし、カガリは奥歯を噛み締める。
 そう、その通りだ。人は、自分に出来るそれぞれの小さなことを守り続けて、生きて行くしかない。
「…それに、色々大変な思いもさせたな」
「……」
「私のいない間、オーブを守ってくれてありがとう」
 自分に出来ることは、オーブを良い国にすること。遠くを見ていた鳶色の瞳を、静かに伏せる。
 笑ってしまうくらい単純なことだったけれど、オーブから離れて、出来ることが何もなくて、もどかしくて仕方がなかったあの頃に、ようやくそのことに気付くことが出来た。
「カガリ…」
「本当に、感謝している」
 言葉と一緒にカガリはぴしっと背を伸ばして立ち、キサカを見上げると、穏やかな笑顔を浮かべたまま、頭を下げた。
 ごく自然なその行動に、一瞬あっけにとられ、慌てて彼女を押し止どめる。
「カガリ、よせ。仮にも一国の代表が、軽々しく臣下に頭を下げるもんじゃない」
 小さな子供を叱るような口調で言ったキサカに、カガリは大いに不満げな様子で腰に手を当て、大男を怯むことなく睨み上げた。
「馬鹿なことを言うな。そうやって、感謝の気持ちも詫びの気持ちも忘れたら、それこそ為政者失格だ。父上なら、きっとそうおっしゃるぞ」
 駄々をこねるように頬を膨らませ、カガリはキサカの鼻っ面にぴしゃりと言葉を叩き付けた。
 彼女の口調に迷いはない。父は、彼女にとって大先輩であり、憧れであり、目標だ。父のような為政者に。それも、カガリの目標である。
「私はお前に頭を下げる理由がある。それが、私がお前に出来ること、すべきことだ。そして、それを許すか許さないかを決めることが、この場合のお前のすべきことだ。
 違うか?」
 キサカの長身を真っ直ぐ見上げる見慣れた少女の顔に映っているのは、もう揺らぐことはないだろう決意の光だった。そして、力強く輝く鳶色の目に映るのは、彼女の見据える未来。
 ここにいるのはもはや、彼の庇護の元でがむしゃらにもがいていた少女ではないと、キサカは気付いた。オーブを離れていた間に彼女が経験したことが、どれだけ過酷で残酷で、同時にどれだけ有意義だったか、キサカにはなんとなくだが感じることが出来た気がした。
 アークエンジェルの乗組員達には、今回も世話になりっぱなしだ。表情には出さずに、ひっそりと苦笑する。
「…そうだな」
 カガリの後ろに、キサカにとって敬愛してやまない彼女の父の姿がうっすら被る。娘の肩に手を乗せて、いつもどおりの微笑を浮かべた彼は、愛娘の覇気が嬉しくて堪らないと、満足しているように、キサカには見えた気がした。
 キサカを見上げ、しっかりと頷いたカガリは、堂々と胸を張って、揺らぐことのない鳶色の目を柔らかく和ませた。
「今までありがとう。
 これからも、宜しく頼むな」
 言葉とともに差し出されたカガリの手を、キサカはじっと見つめた。
 初めて会った彼女は、まだほんの小さな子供だった。堂々とした体躯の強面の軍人を恐れることなく見上げて、子供らしい天真爛漫な笑顔を弾けさせた。これは将来有望かも知れないと、彼女の父と交わした会話が懐かしい。
 それから幾年経っても、彼女は物怖じ一つしないお転婆な娘で。たが、あの頃のように、ただ跳ね回って、きゃんきゃんと声を上げていただけの子供では、もうない。
「ああ。勿論だ」
 カガリの手を握り返したキサカの手は、広くて大きくて、記憶の中の父の手に変換されてしまう。カガリの気持ちは引き締まると同時に、涙腺が綻んだ。
「それじゃあ、俺は自分の艦に戻る。身体には気をつけろ」
「ああ、お前こそ」
「お前が死ななければ俺は死なんさ」
 何とも無茶苦茶な理論で宣言すると、キサカは気楽にカガリの背を叩いた。その仕草は優しくて、自然とカガリの背筋が伸びる。
「わかってる。ここまで来て、今更死ぬ訳にはいかないからな」
 一度は国を離れたカガリに今出来ることは、再び国に戻った後、それまで以上の国にすることだ。それで初めて自分の責任が果たせるのだと、カガリは信じていた。
 笑みを交わし、短い別れの言葉を告げると、キサカがくるりと踵を返す。





 だが、ぴんと背を伸ばした彼を背を見送っているうちに、カガリの中に抑えていた感情がねくねくと込み上げてきていた。それは、大西洋条約締結の閣議をしていた頃から、いや、オーブの首長に就任した頃から、ずっと抱き続けて来た疑問。キラやラクス、マリューでは意味がなく、はぐらかされた答えが返ってきそうでオーブの誰にも聞けなかった疑問。
 聞きたい。
 キサカだったら、偽りのない言葉を返してくれるはず。たとえ、その返答がどうであれ。
 居ても立ってもいられず、カガリはつい声を上げていた。
「キサカっ!」
 訝しげに振り返った彼は、カガリの表情を見て固まった。
「どうした?」
「…ずっと、ずっと聞いてみたかったことがある」
 両の拳を体の横で握り締め、カガリは溢れ出しそうになるものを堪えて言葉を続けた。
 溢れるものは、ずっと抱き続けていた疑問か、恐さからくる涙だろうか。
「…私が、私が、…もしも『アスハ』ではなかったら、このようなことにはならなかっただろうか」
「なに?」
「もしも、私とキラが逆で育っていたら。もしも、お父様が私やキラ以外の者を養子にしていたら。もしも…、もしも、私がいなかったら…」
 そこまで言って、とうとうカガリは言葉を続けられず、零れそうな涙を、次の言葉と共になんとか飲み込んだ。
 国を憂いていたのは、カガリだけではない。父の側近も、カガリと同じ理想を信じていた者もいる。彼らのほとんどは、政治に携わったことのないカガリとは違い、彼女の父の元で働いていたり、それぞれの分野で活躍していた者達だ。経験で言えば、カガリよりも余程首長に相応しかったと言える。
 それでも、オーブの代表は、カガリだった。
 自分でない者が治めていれば、オーブは傷つくことがなかったのではないか。そもそも、自分でない者が父の子になっていれば、ここまでオーブが荒れることはなかったのではないか。
 一度湧き出した疑念は、枯れることなく頭を支配していく。考えるだけ無駄だと、今更意味のないことだとわかっていても、一度頭を支配した考えは簡単に引き下がってはくれなかった。頭では割り切っていても、それだけでは済まない感情だってある。
 言葉を詰まらせるカガリを見て、駆け寄ったキサカも一瞬掛けるべき言葉に戸惑った。
(そこまで悩んでいたか…)
 起こったこととなかったことを混同して考えるのは、まったくもって意味のないことだし、第一そんなことを責めても何にもならない。だが、悩む方がそうした考えに陥りがちだと言うことは、キサカにもよくわかった。
 大きく息を吸うと、キサカは、自身にも話し掛けるように、ゆっくりと話し始めた。
「…もしそうだったら、俺はここにはいないだろうな」
 震えるカガリの両肩に、その広くて厚い手を乗せる。
「それに、お前もいない。キラもいない」
 ぶる、とカガリは、一つ身体を震わせた。俯いた金髪の下、きつく唇を噛み締める。それでも涙だけは零すまいとする強情な娘の、小刻みに揺れる金髪を見下ろしながら、キサカはあくまで変わらない調子で言葉を続けた。
「お前が砂漠でアークエンジェルに出会わなければ、彼らはあのままあそこで死んでいたかもしれない。キラも死に、アークエンジェルも墜ち、バルトフェルド殿がキラに会うこともなく、キラとアスランが戦うこともなく、キラとラクスがもう一度出会うこともなかった。
 アスランはお前に会うこともなく、ザフトの兵士として死ぬまで戦ったかも知れないし、アークエンジェルのいないエターナルとラクスは、ヤキンで宇宙の藻屑になっていたかも知れん。
 そもそも、お前がヘリオポリスにいなければ、キラはただの工業カレッジの学生で、戦争を外側から眺めていたはずだ。ストライクにも乗らず、アークエンジェルにも乗らず。
 …それでは、何も始まらない」
 キサカが告げる一言一言に、カガリは大きく肩を震わせた。
 それはまるで、判決の前に、己の罪を読み上げられる恐怖。
「…だが、どれも起こらなかったことだ。過去に起こったことを悔やむのなら分かるが、過去に起こらなかったことを悔やんでも仕方あるまい」
 そこまで言って、キサカは彼女を宥めるように、声音に一筋、優しさを混ぜた。
 それを聴いた瞬間、カガリの中の最後の我慢の糸はぷつんと切れた。震える呼吸は、いつのまにか嗚咽に変わる。
「明けの砂漠の連中を覚えているか。連中が、お前を何と呼んでいたか」
 大声で泣き出しそうな口許を必死で押さえ、カガリは微かに、頷く。忘れる訳がない。
「連中はお前のことを、俺達の勝利の女神だと、そう言っていたな。まだ子供で、甘ったれで、先も読めないひよっこのお前を、間違いなく自分達にとっては勝利の女神だったと。そう、言っていたな」
 当時のことを思い出して、キサカは薄く笑う。
 いきなりレジスタンスに飛び込んで、あっという間にカガリは彼らの中心になった。特別射撃が得意な訳でもない。特別頭脳が優れていた訳でもない。だが、彼女が居るというだけで、彼らの表情は変わった。
 無謀でも幼稚でも無茶でも。
 彼女の纏う、清廉な炎は美しかった。
「…俺も、その時確かにそうだと思ったし、今でもその気持ちは変わらない」
 キサカ自身、最初はウズミに頼まれ渋々引き受けた、彼の娘のお目付け役。我が儘ではないけれどゴーイングマイウェイでお転婆で、危険に突っ込んで行くのに躊躇もしない。
 けれどいつのまにか、少女のお目付け役は、命令などではなくなっていた。彼は、少女自身にすっかり引き込まれていたのだった。
 父親と並び立つような、完璧な為政者ではないかも知れない。しかし、彼女は確かに、彼女にしかないような魅力を持っていた。そして、それを感じていたのは、彼だけではない。
「お前がいたから、皆ここまで来れた。
 キラもラクスもアスランも、ラミアス艦長もバルトフェルド殿も俺も、…勿論オーブも」
 もしも、カガリがいなかったら。
 すべてを託すに相応しいと、ウズミが信じる者がいなかったら。あの日、オーブはこの地球上から消えていたかも知れない。
「もっと自信を持て。お前にすべてを悔やむ気持ちがあるのなら、胸を張れ。俯くな。自分の選んだ道を振り返って後悔するな。誰よりも挫けずに、最後まで足掻いて笑って見せろ。
 それでこそ、俺達の女神だ」
 最後の一言が告げられる前に、カガリのきつく閉じられた両目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。どんなに頑張って涙を堪えようとしても、溢れる思いと涙は止まらず、噛み締めた唇の隙間からも嗚咽が漏れる。
 カガリの体が傾いで、ずるずると床にくずおれる。キサカは膝を折って、目線を合わせた。
 そして、頬を歪めて優しい苦笑を浮かべると、小さな子供をあやすように、そっと彼女の金色の髪を撫でた。
「泣き虫のお前のことだから、どうせ、今までも腐るほど泣いたんだろう?」
「…うん……」
「だが、哀しいのでもなく、辛いのでもなく流す涙は、悪いものじゃない。
 なぁ、カガリ?」
 キサカの声はどこまでも優しくて、同時に、もういない父の面影が重なる。
 喧嘩して泣き、何か理不尽なことがあっては泣く娘を、いつも根気強く、泣きやむまで傍でじっと待っていてくれた父の姿。
 それに、キサカが敢えて言外に示したことは、父が最後にカガリに残した言葉。
『そなたの父で、幸せであったよ』
 それが、すべてを伝えていたのに。
 涙で声にならない言葉の代わりにブロンドを振って、カガリは何度も何度も頷いた。答えは、すぐそこにあったというのに、何と遠回りしていたのだろう。
「お前が居てくれて、本当に良かったと思っている」
 世辞じゃないぞ、と目許を綻ばせ、一人小さな笑いを零すと、キサカは子供のように泣きじゃくるカガリが泣きやむまで、ずっと傍に居続けた。
 それでも声を殺して泣く頑固な娘を、困ったように、くすぐったそうに微笑んで、飽きずに宥めながら。







薔薇は神の付けたる名にして、我らが薔薇は、名も無き薔薇なり。








 趣味全開のシリアスなお話でした。
 「もしも自分がいなかったら」っていうのは、誰でも一度ぐらいは考えたことあるんじゃないかなー、と思いまして。
 種のキーパーソンは、みんな女の子だな…(笑)主人公が男ですものね。

 会話の相手をキサカさんで書いた後、「これってアスカガ的には、(話し相手を)アスランにした方がいいんだろうか…?」と思って、脳内で練り直してみましたが、あまりにも似合わないんで止めました(笑)
 キサカさんとっっっても好き!ビバ親父!ノイマンさんとお声が同じ方とは思いもしませんでした(笑)

2006.1.27