One night in your life





 生涯に一度の夜とは、こんなことを言うのかも知れない。
 腕時計を見ると、時刻は午後六時四十八分を回ったところだった。原子時計は、いつ如何なるときでも正確な時間を返すので、彼の愛用の品だった。シンプルで飾り気のないものだが、デザインにこだわりのない彼には、一秒たりとも狂うことのない時計を非常に重宝していた。
 彼が背を預けているのは、黒いオープンカー。車庫の隅で埃を被っていた年代物のそれも、彼のお気に入り。厳密に言えば、それは彼の私物ではなく、彼が居候しているアスハ家のものなのだが、使う人物が他にいないこともあって、有り難く使用させてもらっていた。
 オーブの冬は決して厳しい訳ではない。赤道付近の国であるから、冬でも10度を下回ることはまずない。それでも、12月になれば他の季節に比べれば寒いし、マフラーが恋しくなる。黒い皮のジャケットの襟を立て、頬を撫でる冷気に肩を震わせる。しかし、零れた呼吸は白くはなかった。
 待ち合わせは七時。だが、最初から「来られたら来る」という約束なので、多少の遅刻を気にするつもりはない。
 それに、冬空の下で立っているのは、思いの他気持ちが良かったのである。凍える空気がダークブルーの髪を揺らす。塗り込められたような夜の闇に、彼の髪はじんわりと馴染んで溶け込んでいた。塵の少ない冬の夜空は、見える星も一段と多い。とは言え、ここは行政府の駐車場。市街のハズレではあるが、庁舎の明かりは煌々と輝いて、星を隠していた。
 オーブの庁舎は非常に時代錯誤な、豪奢な建築である。左右に棟が広がった洋風建築で、全体的に青みがかった岩石で作られている。周囲には整然と整えられた庭園が広がり、本当に何処かの宮殿に紛れ込んだかのようだった。駐車場は左翼の脇の向こうにあり、そこからは庁舎を見上げても、首長の執務室は見えない。
 彼は軽く嘆息すると、おもむろに車のダッシュボードを漁った。がさごそと中身を引っ繰り返して取り出したのは、つぶれた煙草の箱と、100円ライター。太めの煙草を一本抜き取ってくわえ、手慣れた様子で火をつける。街灯のない駐車場に、ぽうっとライターの火が灯る。大きな手の中に、小さくライターの火が揺れた。煙草の先に火が移ると、彼はまず深く深く吸い込んだ。胸に溜め込んだ息を、ふぅ、とその分長く長く吐き出すと、白い煙は糸のように宙を昇った。
 格別煙草が好きという訳でもないし、普段は滅多に吸わない。だが、時たま無性に吸いたくなる時がある。いきなりぽっかりとスケジュールに穴が開いて暇になった時など、ふと思い立って煙草を手に取る。ニコチンの味は苦いし、美味しいとは思わないけれど、何となく煙草をふかすという行為そのものが、気分をなだらかにするのに有効な気がした。
 冷たい夜空を仰いで、紫煙を吐き出す。少し背を丸めて、車に寄り掛かり、時折灰を落としながら、ゆっくりゆっくり味わう。長い指の間に挟まれた煙草は、細い煙をくゆらせながら、のんびりと灰に帰っていった。
 最後に深く吸い込んで、短くなったそれを携帯灰皿に押し付けたところで、庁舎の方から軽やかな足音が近付いてきた。
「アスラン!」
 呼ばれて、ぱっと振り返ると、待ちわびていた人物が金髪を揺らして足早に姿を現わした。
「すまない、待たせたな」
 目の前に立ったカガリが、申し訳なさそうに顔の前で手を合わせる。腕の原子時計を見ると、時刻は7時12分。確かに待ち合わせ時間は過ぎていたが、これぐらいなら上々だ。アスランは笑顔で首を振った。その様子にほっとしたカガリは、表情を和ませると、ふと、アスランの手の中の灰皿と、辺りに漂う煙の匂いに気付いて首を傾げた。
「あれ。珍しいものやってたみたいだな」
「カガリもいるか?安物じゃないよ」
「いや、いい」
 差し出された箱を丁重に押し返して、カガリは鳶色の瞳を細めて苦笑いをした。
「そんなに旨いか、煙草?わたしにはわからん」
「旨いっていうか、落ち着くかな。こういうとこで吸うと」
「…なるほど」
 アスランの言葉にカガリの笑みが更に深くなった。跳ねるように2、3歩進むと、アスランの左側にひらりと納まり、並んで立つ。黒いフェルトのコートを襟まで立てた彼女は、闇の中、輝く金色の髪と白い顔だけが浮かんでいるようだった。
「それはわかる。一度息をつかないと、仕事から解放された感じがしないんだよな。何かまだ追い立てられてるみたいでさ」
 くすっと、口許に手を当て、カガリが笑った。やる人によっては、すごく女の子らしい仕草にも見えるが、両腕を組んで、さばさばした口調の彼女が言うと、可愛らしさよりも快活さが勝った。
「実際、明後日が恐いけどな」
「バカ、思い出させるな。今だけ忘れるって言ったのはどいつだよ」
「ごめんごめん、俺の方でした」
 真っ白な息と一緒に交わされる軽口は、どこか澄んだ硬さを持つ。叩けばぴしりと言いそうな。触れ合えば凛と鳴りそうな。それが、二人のいつもの調子。二人だけの呼吸。
 アスランは、隣に立ったカガリを笑顔で見下ろした。
「それじゃ、行くか」
 カガリは頷いたが、身体を起こしかけたアスランの手をいきなり引き止めた。冷え切った指に、暖かい手の平が重ねられる。カガリの手は、洒落っ気も何もないけれど、健康的な、すらりとした手だ。
「すっかり冷えてるな。…中で待っててくれても良かったんだぞ」
 待たせたことを気にしているらしい彼女の口ぶりに、アスランは何だかくすぐったい気持ちになって危うく吹き出しそうになるのを堪えた。カガリが殊勝にしてくれるのも珍しい。嬉しいような、不思議な気分だ。再び車に寄り掛かり、重ねられた手を握り返す。
「…前に読んだ本にさ、生涯忘れられない夜ってどんなものか書いてあったのを思い出したんだ」
 唐突な話の始まりに、きょとんとするカガリの視線を横顔に受けて、アスランは夜空を見上げた。
「周りに何にもない丘の上に座って、暖かい春の空気を吸い込んで、隣に座る誰かと手を繋いで、何にも言わずに星空を見上げる。何も言わなくても気持ちが伝わって、満足して。それが生涯に一度の夜だろう、って。
 何かを成す訳じゃないけど、一生心に残る」
 ぽつりぽつりとしか星の見えぬ空を仰いで、言葉を続ける声は朗らかで。カガリの指を握る冷たい手に、力が籠もる。それは、カガリの指から伝わる熱で、段々と温もりを取り戻しつつあった。
「ここに車つけて、何となく空見上げた時、ああそれって今のことかもな、って思ってさ」
 空を見上げるアスランにつられるように、カガリもふわっとその視線の先を追った。
「俺にとっては、煙草ふかしながら、カガリを待ってた30分が、生涯忘れられない夜かも知れない」
 そう言うと、次は口調に苦笑が混じった。まったく、自分は何を恥ずかしいことを言っているのだか。そんな言葉が如実ににじみ出ている。
「…ってまあ、実際のところは、さっむい屋外で、一人でぷかぷか煙草ふかしてただけなんだけどな」
 ふと横を見ると、アスランのエメラルドグリーンの瞳が、静かに夜空を映している。その穏やかな色と、照れ混じりの笑いに、カガリは微笑んで、ことんとアスランの肩に頭を預けた。
「…オマエ、後になって、待ちくたびれて凍死するとこだったから忘れられない、とか言ったら張り倒すからな」
「…いっつもムード云々言うのはカガリのくせに、ぶち壊すのもカガリだよな」
「…そういうことも大事に心にしまっとけ」
「はいはい…」
 拗ねたカガリの声に、我慢し切れなかった忍び笑いが、とうとう溢れる。顔を伏せて横を向き、くすくすくすくす肩を震わせるアスランに、カガリはぷくっと頬を膨らませた。
「笑うなバカ」
 カガリはあっさりアスランの手を振り払い、くるりと身を翻して、さっさと助手席に飛び乗ってしまう。
「あっ、カガリ!」
 カガリが本格的に機嫌を損ねると、後始末が大変だ。今度はアスランが、カガリに向かって謝る番だった。顔の前で両手を合わせ、がばっと頭を下げる。その必死な、ダークブルーの髪を横目で睨んで、カガリは目一杯不機嫌そうな顔をした。
「ごめんっ!」
 平謝りするアスランが、ちらっとカガリの顔を盗み見る。鳶色の瞳をぎゅっと閉じ、意志の強い唇を引き結んで、腕組みをして。政治的交渉の場でのカガリの凛とした態度もアスランは勿論好きだったが、この場では困る。さらに、言葉を続けた。
「悪かった!嘘です、冗談ですッ!」
 不機嫌に閉じた左目を薄く開けて、カガリは危うく吹き出しそうになった。別に、今ここで喧嘩をするつもりも、機嫌を悪くするつもりもない。このしかめっ面は、吹き出しそうになるのを我慢するためだ。とは言っても、彼女の機嫌を直そうと平謝りしているアスランでは、これっぽっちも気付く訳がないのだった。
 カガリが厳かに右手を持ち上げると、上目遣いのアスランと目が合った。鳶色の瞳を優しく細め、びしっ、とアスランのおでこを軽くはたく。
「…ばぁか。わかればいいんだよ」
「心に刻んでおきます」
「よろしい」
 同時に、二人は吹き出した。
 そして、すぐにいつもの調子に戻る。
「そろそろ急いだ方がいんじゃないか?おばさん達、待ってくれてるだろ?」
「ああ。とっておきの夕飯、準備してくれてるって」
 アスランはすたすたと運転席に回り込み、エンジンを掛ける。知らず知らずのうちに弾んだ声になっている彼に、カガリは肘をついて笑った。シートベルトはしっかり掛けて。黒のオープンカーは、ボディと同じ闇の中に、するりと滑りだした。
 途端に、冬の風が全身にぴゅーぴゅー吹きつけて、二人の髪を大きく逆立たせる。運転するアスランの横顔を見ながら、カガリは悪戯っぽく言った。
「わかった、どうせロールキャベツだろ」
「な…っ、どうせってなんだよ」
「前におばさんに力説されたぞ。『アスラン君は、ロールキャベツが大好きだから。これさえ覚えておけば、ばっちり餌付け出来るわよ』って」
「おばさん…」
 カガリのあまりにも楽しそうな声に、アスランはハンドルにめり込みたい気持ちになった。実際、運転さえしていなかったら、ハンドルに頭を叩きつけていたと思う。
 キラの母のカリダは、一見ほえほえした可愛らしい女性であるが、ここぞと言う時のツッコミが厳しいのは、流石彼の母親である。好物は確かに好物ではあるが、そういう風に言われると、恥ずかしくて堪らなくなるのは人間の正しい反応であると信じたい。
 検問を通り過ぎて、行政府の目の前を通るハイウェイに乗る。ハイウェイ沿いに30分も走れば、市街を抜けて、マルキオ導師の孤児院に辿り着く。キラもラクスも今は滅多にそこに帰って来れないが、アスランとカガリだけでも、時間が空いた時にはしょっちゅう遊びに行っていた。
 その度に顔一杯の笑顔で出迎えてくれる、穏やかで心の広いカリダは、キラもアスランも、ラクスもカガリも、皆実の子供のように思ってくれているに違いない。
「私も好きだぞ。おばさんのロールキャベツ。ま、何でもおいしいけどな」
 風に流れる金髪を押さえて、カガリがくすりと笑みを零した。左右に広がる市街は、至る所が電飾で照らされ、まるで真昼のような明るさである。どこか遠くから聞こえてくるクリスマスソングが、二人の耳にも何とか届く。12月に入り、オーブの市街もすっかりクリスマスのイルミネーション一色になった。何処の国だって、お祭ごとは全力で楽しむものなのである。車の横を飛び過ぎる電飾が、瞼の裏に光の軌跡を鮮やかに残した。
「少し早めのクリスマス、って言ってくれてたな」
 ハンドルを軽く捌くアスランの声が、珍しく弾んでいる。
 ケーキだ!ターキーだ!と叫んで、カガリは子供みたいに歓声を上げる。彼女が無心にはしゃいでいる姿を見るのは久し振りで、アスランもつられてついつい頬を緩ませてしまう。
「キラとラクスには悪いけど、思う存分食べるぞー!」
「はぁ…。おばさんとこ行くと、冗談じゃなく太るんだよな…」
 カリダの、あれも食べてこれも食べて攻撃の凄まじさを思い出し、アスランがげんなりとぼやく。その重苦しい呟きを、カガリは幸せいっぱいの笑顔で吹き飛ばした。
「今日は特別!」
 飛ぶように流れる景色と一緒に、会話の断片も吹き流されて、冬空に舞う。郊外への道をひた走るオープンカーの中で、カガリは鳶色の瞳をくるりと回した。
「おばさんがいて、導師様がいて、おばさんの作ったご馳走があって、お前がいて。
 …こんなのも、忘れられない夜になりそうな気がするな」
 横を見ずとも、彼女が浮かべている表情ぐらい簡単に想像がついて。アスランも、小さく微笑んで相槌を打った。
「…そうだな」
 言葉と同時にスピードを上げたオープンカーは、冷たい空気を切り裂きながら、眩い市街を真っ直ぐ通り抜けて、あったかい食事の待つ家に、迷わず突き進んで行った。








 本命その1。その1ということは2も3もあります(それは本命とは言わない/笑)
 下の妹に見せたら、「誰かと思ったよ!この煙草吸ってる親父!」と爆笑されました。(やっぱり?)
 20代前半のイメージで書いてましたが、確かに言われれば30くらいの渋み(?)があるようなないような。おかしいな、煙草吸う姿が格好良いと思って書き始めたはずなのに(笑)


 今年一年の感謝をめいっぱい込めまして。
 Merry Christmas!

2005.12.11