夜の海に立ち





 藍色の静寂に、一筋の歌声が流れた。


 遥か眼下に望む街並は、夜の闇にすっぽりと溶けて、巨大なオブジェのようだった。包み込むような闇の下で、青白い光にぼんやりと浮かび上がる地表。時折強く瞬くのは、黄色や白のネオン。こんな時間になっても活気のなくならない街の刃が、閉じた瞼の裏を、強く射す。
 だが、高台の上にあるこの場所までは、街の活気は届いてこない。静寂の上に、街の明かりが降り注ぐ。
 一筋の歌声は、バルコニーから流れるものだった。白いてすりに、同じくらい白い手を載せ、街を仰いだ細身の姿。藍色に染まった横顔。夜目にも鮮やかなピンクの髪。



    会いたいと言えたら  もう会いに行ってる
    愛してると言えたら  愛してるって言ってる
    手を繋ぎたいなら  もう握り締めている
    それが出来ないから  こうして歌ってる




 白い喉から生み出される音楽は、身震いするほど優しくて、美しい。閉じた瞼を薄く開けば、スカイブルーの瞳の中に街の明かりが小さく浮かぶ。
 不意に歌を止めて、少女はくるりと身体を回転させる。未だに明るい街と対照的に、彼女の屋敷と庭は藍色の闇の中で静まり返っていた。庭の真ん中にある硝子張りの六角形の温室が、小さなオレンジ色の電球の下で鳥籠のように浮かびあがる。
「……」
 一体何度、期待で振り返ったことだろう。
 こうしてバルコニーに立ち、ベンチに座り、ベッドの隣に座り。昼となく夜となく、歌声を生んでは、99%の期待と、1%の不安で振り返る。彼の目に、自分の姿が映ることを願って。
 温室の中の人影が、ぐっすり寝入っているのが気配でわかって、少女は涙を堪えているような硬い表情に、ふわりと苦笑を混ぜた。今、彼に必要なのは、時間だ。身体の傷と心の傷を癒し、突き刺さる痛みを和らげるものだ。
 天女の歌声だ、と彼女の歌を、人は言う。心が洗われるようだ、癒されるようだ、と。だが、いくらそう言われても、こうして傷ついた人間一人救うことも出来ないのでは、一体それに何の意味があると言うのだろう。
「キラ…」
 少女は呟くと、唇を軽く噛み締めた。
 プラントに、本物は少ない。作られた昼。作られた雨。作られた夜。
 物音一つない冷たい静寂はあっても、包み込むような優しいそれはない。少女にとってはプラントは故郷であり、この年まで育って来た場所だ。この、巨大な箱庭のような閉ざされた空間も好きだ。だが今は、かの遥かな地球が恋しかった。
 真っ暗な海の傍に佇んで、絡み付いて来るような波の音の中で、柔らかな歌声を上げたら。今度こそ彼に届きはしないだろうか。
「キラ…」
 俯いて絞り出した少女の声に、震えが混じる。
 初めて目覚めた時は、自分が生きていることが信じられず。次は、友を手に掛けたことに慟哭し。それから彼は、ひどく大人しくなった。泣き叫ぶことも、苦しむこともなく。
 まるで、ひたひたと、静かに死へと向かっているように。
「…死んでは駄目です…!」
 万感を込めて吐き出された思いとともに、少女の頬を涙が滑る。
 身体も、心も。
 そこにあなたがいなければ、何の意味もないと言うのに。
「…キラ…っ!」
 初めて出会った時、少女の姿を映した瞳に、今は何も映らない。少女の名を呼んだ口も、今は誰も呼ぶことはない。
 己の手で命を奪った、幼馴染みの名でさえも。
 どうすれば、彼を引き止められるのか。どうすれば、彼を連れ戻すことが出来るのか。
 少女には、ただ歌うことしか思いつかない。




    貴方の心に私の歌声がたとえ届かないとしても
    この声が嗄れるまで歌うのだろう
    涙零れないように星を見上げて
    励ましてくれるような波を聞いて




 藍色の闇の中、ピンクの歌姫の声が凛と張る。
 バルコニーに身体を預け、街の明かりに背を染めて、思いの限りを歌い出す。その最後の一節まで、思いの全てを吐き出しきると。少女はふっと、天を仰いだ。地球から仰ぐ空よりもずっと、星に近いところにいるというのに、作り物の空はひどく遠い。
 手を伸ばせば触れられる距離にいるのに触れられない、彼の心みたいに。
「…わたくしは、ここにいます」
 だからもう一度、貴方の瞳に、わたくしを映して下さい。何も映さぬ空ろな瞳ではなく、優しい色の貴方の中に、わたくしを映して。
 涙に潤みながらも凛と澄んだソプラノが、藍色の静寂に吸い込まれていく。冷たい静けさに、いつまでも歌姫の恩寵は響き続けていた。








 何もかもを切り捨てるのはひどく楽だった。
 今まで思考を巡らせ続け、答えに至れず、またも陥る思索の沼から、這い出るのを諦めればいいだけのこと。あんなに冷たくて息苦しかった泥沼も、抵抗するのを止めれば、ひどく心地良い。ゆっくりゆっくり沈んでいく感覚すら穏やかで、彼は瞼を閉じた。
 穏やかな死。
 このまま、胸の鈍い痛みとともに死んでしまえたら。痛みを感じることもなく、また戦うこともなく。いや、本当は、あの戦いの時に死んでしまったのではないか。そう。死んだことにも気付かぬまま、こうしてゆるゆると留まって、ひっそりと消えて行く。
 それでもいい。
 首まで浸かった泥沼の中、もう指一本動かす気力すらない。
 だが、今にも顔まで沈みそうな瞬間、頬に柔らかなものが触れた。からからにこびりついた乾いた泥を、優しくこそげとる。それは、彼が浴び続けて来た分の、命の重さでもあり。
 頬に、額に、瞼の上に降り注ぐ優しさが、這い出せぬ泥沼の中にも降りて来る。何の迷いもなく、躊躇いもなく。瞼を開ける気力もない、彼の瞼に口付けて。その上に、暖かい囁きがそっと降る。
 促されるように、瞼が震えた。やっぱりずぶずぶと身体は沈んでいたけれど、微かに、瞳が開かれる。
 その、深い深いアメジストの色に、ほんのわずかな生気を抱いて。







 今は、夜らしい。
 開いたばかりの瞳に、オレンジ色の電球の光と、暗い夜空が飛び込む。ここがどこなのだか、彼にはわからなかった。見たことがあるような気がしたけれど、あくまで気がした、だけで。
 開け放たれた硝子の扉から、夜の冷気とともに澄んだ歌声が彼の元に届く。起き上がるのも、首を動かすのも億劫で。薄く開いた瞼の下、歌声の主を考える。言葉までは聴き取れないけれど、澄んだ歌が耳に染みる。




 生きて。




 こびりついた血を拭ってくれた指。血の沼に降り立った、凛としたソプラノ。
 薄く開かれた、何も写さぬ空ろなアメジストの瞳に、うっすらと涙が盛り上がる。
 久しく言葉を出すことのなかった口はひどく乾いて、空気ばかりが抜けていくけれど。
「…ラ…、クス…」
 もつれる舌でその名を呼ぶと。両の瞳に溜まった涙が、するりと顔の横を流れた。




 わたくしは、ここにいます。




 もう一度、次は確かな言葉でその名を呼ぶ。
 傷付いた頬に、言葉にならない悲鳴を乗せて。
 アメジストの瞳に、オレンジ色の明かりを映しながら。
「…ラクス…っ」





 少女の歌声は、一晩中流れ続けていた。
 藍色の、冷たい静寂の中を、凛と一筋輝きながら。
 ここにいます、と声なき声で歌いながら。





BGM by   柴田 淳「夜の海に立ち」



今しか書けない!というくらいのすごい勢いの神様が降臨してました(笑)
柴田さんの歌を聴いているうちに、シーンが浮かんで、すらすらと。

無印で、キラとアスランの死闘があった後、キラがクライン邸で療養しているところです。
アニメでは、確かこんな演出じゃなかったなぁ、と思ってチェックしたら(したのかい/笑)案の定違いました(爆)
えと、最初に目を覚まして泣き崩れた後と、ラクスとお茶を飲みながら、死闘について語るシーンの間だと思って下さい…(苦し紛れ)
この曲に合うのは、絶対こんなシーンかと…!

本当は黒背景にして、「君は僕に似ている」のジャケットみたいな素材を背景にしたかったんですが…。
見つかりませんでした。残念。
キララクも大好きです。今度は、逆の「今夜、君の声が聞きたい」が書きたいですねーv
で、も少し明るい、幸せな話で(苦笑)

2005.10.14