その日、寝台の上でとろりと目を覚ました千尋は、頬に当たる暖かくて乾いた風に、寝返りを打ちながら口の端をだらしなく緩めた。
 濃い、甘い空気が、胸をいっぱいに満たす。
 あまりにも気分が良くて、千尋はそのままするすると二度寝に突入していった。



Spring Island


「…千尋、言い出しっぺが寝坊するなよな」
 ばたばたと、目の前を駆け足で横切る千尋の衣の裾の蒼さに目を細めながら、頬杖をついた那岐が、いつものようにつまらなそうに呟いた。
「だって、誰も起こしてくれないんだもん…!」
 寝癖のついた短い黄金色の髪を片手で撫でつけ、もう片方の手で櫛を通しながら、千尋は泣きそうな声で口を尖らせる。
 鏡の前で慌てふためいている千尋の姿を座椅子の上で眺めつつ、那岐は素っ気なく言う。
「今日は何もないから気を遣ってくれたんだろ」
「そんなのわかってるよ…っ」
 いつも起きる時間より、随分寝過ごした千尋をわざわざ起こさずにいてくれた夕霧の気持ちを責めるつもりなんて、さらさらない。
 ないのだが。
「みんな、もうとっくに待ってるよね…?」
 恐る恐る、那岐を振り返ると。
 千尋の予想を寸分たりとも裏切らず、澄ました顔の那岐はにべもなく答えた。
「とっくの昔に」
「謝らなきゃ…」
 鏡台の前で、がくりと肩を落とす千尋の後ろで、那岐がすくっと立ち上がる。
 きょとんと見守る千尋の蒼い目の中、つかつかと寄って来たかと思うと、千尋の手の中から、櫛と蒼い花の髪飾りを取り上げる。
「那岐?」
「もう面倒だから、髪なんて結ばなくていいよ。とっとと行こう」
「うそ、やだ! こんなぼさぼさの頭じゃ行けないよ! すぐにやるからちょっと待っててってば!」
「待てない。千尋が早くしないと、アシュヴィンだの忍人だのにイヤな顔されるのは僕だからな」
 櫛と髪飾りを持ったまま、問答無用で部屋を出て行ってしまった幼馴染みの背を、唖然と見送って。
 千尋は頬を膨らませて怒りながら、足早にその後を追いかけていった。



   *   *   *

 青い草がどこまでも続く草原の真ん中に立って、千尋は胸を張り、思いっきり息を吸い込む。
 五年ぶりに戻ってきた豊葦原は、千尋にとっては懐かしい故郷であると同時に、見慣れぬ異界でもあった。見慣れた近代的な街並みも、服も、音も、光も、何もかも違う。
 けれど、この空気。
 甘い、濃い、森と花と水の匂い。
 それだけは、微かに、けれど確かに記憶の底に留まっていたから、豊葦原の地に立って、「ここが故郷だ」とわかったのかも知れない。
 だから、千尋はこうして深呼吸し、胸一杯に豊葦原の空気を吸い込むのが好きだった。
 両腕を伸ばし、深呼吸をしている千尋の後ろで、小さな呟きが耳に響く。
(神子、葦原の気が体中に満ちている)
 振り返れば、いつも千尋の後ろにくっついて行動している土蜘蛛、遠夜が淡く微笑んで千尋の姿を見ていた。
「うん、こうしてね、天気の良い日に、こういう広い所で深呼吸するのが好きなの。この空気を吸うと、やっぱり私はここで育ったんだなぁ、って実感出来るから」
「そうですね、こんな天気の良い日にするピクニックは楽しいですよね」
 弾んだ声でそう言って、両手にいっぱいの籠を抱えた風早が、立ち止まった千尋を追い抜かしていく。
 続いて、ご丁寧に欠伸を噛み殺しながら、皮肉と忍び笑いたっぷりの言葉を吐きつつ、アシュヴィンが千尋を追い越して歩いていく。
「誰かさんが優雅に寝坊しなければ、もっと楽しかっただろうな」
「うっ、ごめんなさい…」
「そういうお前さんだって、遅刻しただろー?」
 風早と同じくらい、両手から籠を下げたサザキが、みんなよりも少し上の空で、からからと声を上げて笑った。ばさっ、ばさっ、と一定のリズムで褐色の翼が空気を切る。
「優雅な姫君に比べればマシだ」
 サザキの軽口ぐらいではヘコまされるはずもない黒雷は、鼻で笑ってさっさと先に歩いていく。
「あまり気に病まれますな、姫。我々は皆、貴女の下僕。貴女をお待ちするなら、喜んで控えておりましょう」
「…俺までお前の馬鹿な言い草に巻き込まないでもらおう」
 いつも通りの柊の言い草に、一緒にされるのは心外だとばかりに、忍人が冷たい言葉と視線を投げつける。
「やれやれ、君こそ、忍人。姫に対する優しさの十分の一でいいから、この昔馴染みにも分けてもらいたいものだね」
「…その減らず口、永遠に黙らせてやろうか」
 柊の場合、本人は至って真面目に言っているのだろうが、誰にもそうはとってもらえない。
 いつでも浮かべた柊の薄い笑みが、仏頂面に輪を掛けてぴりぴりと尖らせた忍人の神経を逆撫でしながら通り過ぎていく。
「…あの二人、毎日毎日、よく飽きないな」
「喧嘩するほど仲が良い、という言葉もある、那岐。葛城殿も内心では、柊殿のことを信頼しておられる筈だ」
 軽く青筋を立てながら、ずかずかと歩き去って行った忍人の背中を、那岐が嘆息で見送る。その横では、布都彦が相変わらずのポジティブぶりで、忍人と柊の関係を素っ頓狂に評していた。
 順に横を擦り抜けていく八つの背を、立ち尽くしたまま見送って。
 千尋は浮かべた笑みを更に深くする。
 今が永遠に続けば良いなんて思わないけれど。
 せめて、この穏やかな春の一日ぐらいは。
「姫? どうされました?」
 ふっと瞳を閉じた千尋の目の前で、低い男の声がする。
 目蓋を上げ、声のした方を振り返って眺めれば、青い瞳の前に黒い革の手袋をはめた手が差し出される。
「柊。…ううん、何でもない」
「まったく、皆、肝心の姫君を置いて、先に行ってしまうとは。感心しませんね」
 顔は満更でもない風に微笑みながらも、柊は横目で悪戯っぽく千尋に笑いかけた。横目の笑みに、それ以上の深い笑みを返し、千尋は首の半ばで切り揃えられた黄金色の髪を揺らす。
「だって、こんなに良いお天気だもの。仕方がないわ!」
 言うなり、千尋はころころと笑い声を上げ、黄金色の髪を揺らしてスキップを踏み出す。
 真っ直ぐなその髪には、那岐が持ったままの、いつもの蒼い花の髪飾りはない。けれど、だからこそ、緑の草原の中に、その黄金色が映える。
 眩しい後ろ姿に漆黒の瞳を細め、口の端を笑みの形に歪めると、柊はのんびりと緑の丘を下っていった。



   *   *   *

「…一つ、聞いてもいいか」
 真っ青な草の上に布を広げ、いそいそと籠の中身を取り出し始めた千尋の、弾んだ横顔を見ながら、少しだけ不機嫌にアシュヴィンが口を開く。
「何?」
 答えながらも、千尋の手は止まらない。笹の葉に包まれたちまきだの、菜の花のお浸しだの、小魚の佃煮だの、次から次へと料理を並べていく。それらを一瞥し、アシュヴィンの視線は、もう一度千尋に戻る。
「お前達、いつもこんなことをしているのか」
「いつもじゃないわ、偶にね。今日はのんびり出来そうだなー、ついでに晴れそうだなーっていう時とか」
「天候のことは遠夜に聞けば一発だしな」
 上空からついっと降りてきたサザキが、千尋の隣に立つ。千尋が顔を上げると、二人は視線を合わせて、にかっと笑い合う。
「呆れたぜ。戦の真っ只中に、花見などしている余裕があるとはな」
「花見結構、宴会上等だ。余裕をなくしちゃ、勝てるモンも勝てねぇぜ、黒雷殿」
 アシュヴィンに向かって、にやりと鳶色の瞳を細め、サザキが口の端で笑う。挑発するようなその言い方に、アシュヴィンの漆黒の瞳がぴくりと揺れる。
「そうそう、それに、最初にみんなを連れ出したのって、忍人さんなんだよね」
 後ろで他の籠の中身を取り出している遠夜から、バケツリレーのように受け取っては置き、置いては受け取ってを繰り返しながら、千尋が暢気に言う。
「ああ、そうだったっけね。あいつがそんなこと言い出すなんて、随分珍しいと思ったよ」
「ずーっと指揮官が同じ空間にいるのも、みんな気を張って疲れちゃうから、偶には一日、姿を消すのも必要だ、って言ってたよね」
「ふーん…、アレがねぇ…」
 頬杖をついたアシュヴィンが、意外そうに呟き、少し離れたところにいる忍人に目を向ける。何の話をしているやら、彼は布都彦の隣に座り、世にも珍しく柊と、まともに顔を突き合わせていた。
「さ! 準備出来た! みんな、ご飯にしよう」
 千尋の歓声で、離れたところに居た布都彦が、了承の返事を送る。布都彦と忍人の真向かいに座っている柊は顔を上げて、淡い笑みで千尋に答えるが、忍人は相変わらず顔を上げもしない。千尋もある程度彼の性格はわかって来ていたので、深くは突っ込まなかった。
 白い布の上に、色とりどりのご馳走が、ずらっと、ところ狭しと並ぶ。千尋とサザキが満足そうに親指を立てていると、でかいやかんを下げた風早がえっちらおっちら丘を登ってきて、千尋達の後ろに立った。
「どうやら、始まる時間には間に合いましたね」
 やかんから、真っ白い湯気が昇っている。近くの小川で汲んできた水を、急ごしらえのたき火で暖めたのだ。千尋の傍に静かに座っていた遠夜が立ち上がり、風早からやかんを受け取る。
(…ありがとう)
「ありがとう、だって、風早」
 にこにこ笑いながら千尋がいつものように遠夜の通訳をすると、二人の顔を順に見た風早も笑顔で答える。
「遠夜の煎れてくれるお茶は美味しいですからね。そのためなら、お湯の一杯や二杯、どうってことないですよ」
 白い布の端の方で、いそいそとお茶の支度を始めた遠夜を尻目に、周囲の者達に箸を配り、早速弁当をつまみ始める。
「いただきまーす。…うぅ、美味しいー」
 春らしい山菜の揚げ物に、千尋は表情を蕩けさせる。
「うん、衣の粟が良いですね。成る程、食感がぷちぷちしていて面白い」
「ね、これなら私でも作れそう」
「…とか言って、いつもこんなの作れない癖に」
 ついさっきまで、布のもう片方の隅の方で昼寝をしていた那岐が、むっくりと起き上がって団らんの輪に加わる。現代で共同生活していた三人が揃うと、すぐに「作れる、作れない」の話になる。
「作れないんじゃないの。作らないの」
 頬を膨らませ、千尋が反論する。家事は分担制だったけれど、仕事をしていた風早は別格だったし、千尋だって勉強に他の家事に、やらなければならないことはそれなりにある。
「ああ、でも、那岐はいつも適当にご飯を作っていましたけど、いざちゃんとしたもの作ろうとすると、千尋より断然上手かったですよね」
 年下の弟妹達を悪戯っぽく眺めつつ風早が言うと、彼の思惑通り、千尋はちょっと情けない顔に、那岐は如実なしかめ面になる。
「…あんたに褒められても嬉しくない」
「だって那岐は、手先器用じゃない。いちいち細かいし」
 それなら上手くて当たり前だ、と千尋は主張する。料理は嫌いではないけれど、細かい計測とか、肝心な部分が苦手だったため、千尋の料理はいつもどちらかというと大味だった。
「で、どれをお前が作ったんだ?」
 千尋達の会話を、忍び笑いを堪えながら聞いていたアシュヴィンが、言葉の隙間に滑り込む。千尋の作った物を食べて、本人の前でいじってやろう、という意気込みがあからさまに溢れている。
 だが、千尋達はちらりと顔を見合わせ、驚いたようにアシュヴィンの顔を見返した。
「あれ、アシュヴィンは知らないんだっけ」
「? 何がだ」
「こういう時、いつもお弁当を作ってくれるのは、カリガネとサザキなのよ」
 えっへん、と何故か胸を張りつつ、千尋が自慢げに告げた。
 マジかよ、というアシュヴィンの視線を受けつつ、千尋の隣の風早と那岐が、同様に首を縦に振る。
「そうだぜ、俺の早起きの集大成だぜー」
 アシュヴィンのイヤそうなオーラにもめげず、暢気でポジティブな31歳が、意気揚々と答えた。
「…ま、美味いのは事実だし?」
 多少は同情する、と言わんばかりの顔で、那岐は素っ気なく言いながらも、籠の中からちまきを取り出す。
「ええ。カリガネは本当に料理上手ですよ。本人も料理が好きだから、色んなもの作ってくれますしね」
 と、那岐と風早がアシュヴィンに同情している間に、千尋はサザキと一緒にお重を覗き込みながら、楽しそうに歓声を上げている。
 きらり、と蒼い瞳を輝かせながら、悪戯っぽく笑う。
「サザキが作ったの、どれ? 毒味してあげる」
「姫さん、そりゃねぇぜ〜」
「そうですよ、せめて毒味は那岐でして下さい」
「…絶対イヤだ」
 めいめいに思ったことを言い合いながら、四人の箸が同時に伸びて、お重の中のご馳走が口に運ばれていく。
 千尋は、四人の様子を眺めつつも、箸を伸ばしていないアシュヴィンの面白くなさそうな顔の前で、お重を突き出す。
「アシュヴィンもどうぞ。サザキ、オススメは?」
「そうだなー。この佃煮のタレは、秘伝だし、絶対美味いぜ。あ、饅頭の栗餡は、俺が丹精込めて練ったんだぜ〜」
「…お前、こんなムサイ野郎どもが額突き合わせて作ったとこ想像したら、食欲失せないか、普通?」
 千尋の蒼い目を真正面から見つめて、アシュヴィンが呆れたように言う。
 何も、そこまで千尋の手料理が食べたかった訳ではないけれど、弁当を作ったのがあのムサイ男ども、その上千尋がそれを喜んで食べている、ということが、アシュヴィンは少し気に入らない。
 眉をしかめるアシュヴィンの顔を見返して、千尋はぷくっと頬を膨らませた。
「じゃあいいわ。アシュヴィンの分は私が食べちゃうから」
「誰もそうは言ってないだろう」
 千尋の拗ねた顔に、アシュヴィンもついついムキになる。
「おいおい姫さん、喜んでくれるのは嬉しいが、太っても知らないぜ」
「忍人達、何をぼやぼやしているんでしょうね。このままじゃ、飢えた千尋に全部食べられちゃいますよ」
 噛み合わない会話は、お互いまったく気にしない。風早が立ち上がって忍人達が群れている方へ歩いて行くと、入れ替わりで遠夜がみんなにお茶を配ってくれる。土蜘蛛が採集してきた数々の薬草を使ったお茶は、甘くて優しい香りがした。
「ありがとう、遠夜」
(…森の茶は、身体の気、綺麗にする)
「うん。何だか疲れが取れるみたい」
 気持ちいい、と瞳を細めて、千尋が湯呑みに口をつける。
 遠夜から湯呑みを配られ、短く礼を言ってそれを受け取った那岐が、ちらりとアシュヴィンの方に目を向ける。どことなく拗ねているような黒雷の顔に嘆息し、だし巻き卵を一切れ取った。
「千尋は年中ああだから、いちいち呆れてるとキリないぜ」
 付き合いきれない、って思うことは、しょっちゅうだけどね、と。那岐が単調な声で言えば。
 アシュヴィンは、那岐の言葉を鼻で笑い飛ばし、いつもと変わらない自信満々な笑顔で、お重の中の煮物を一つ、口の中に放り込んだ。
「ふん、千尋の考えそうなことぐらい、造作もなく読める。別に、呆れてなどいないさ」
「…あ、そう」
 澄ましたアシュヴィンの横顔を、何とはなしに見つめながら、那岐は内心納得する。
(こいつの意地っ張りっぷり、千尋によく似てるよ)
 タチ悪い、と小さく呟き、那岐は素知らぬ顔で、自分の食事に集中することにした。



   *   *   *

 これは結局、誰と誰の対決なのだろう。
 両脇に、渋い顔をして並んだ二人の横顔をちらちらと盗み見つつ、布都彦は内心首を傾げた。
 そもそも、事の始まりは、布都彦と柊で双六の話になった時だった。非常に戦略的で、高い知力と先手を読む力が必要なゲーム。軍人としての力を養うにはうってつけ。
 そう、柊に聞いた布都彦は、このピクニックの時に、彼から双六を教わる予定になっていたのだった。
 岩長姫から借り受けた双六盤を持って来て、柊から簡単なルールを教わり、いざ実戦を始めた頃。
 それまで近くで黙々と身体を動かしていた忍人が、ふと、布都彦と柊の姿を目に留めた。本人もそれほど深い考えはなかったのだろうが、何気なく見た盤上の情勢に目がいった。
 途端に、どっかと布都彦の隣に座り込み、彼の加勢をし始めたのである。基本的なルールしか分からない布都彦にしてみれば、忍人がここまでムキになるほど、柊がぶっちぎって勝っていることも分からなかった。
(何だか、妙なことになった気がする…)
 加勢してくれる忍人の気持ちは嬉しいし、同時に定石なども教えてくれるのだから、文句は全然ない。が、ぴりぴりと殺気を放ちながら腕組みをしている忍人と、相変わらずの薄笑いでにやにや笑っている柊を見比べていると、非常に居心地が悪くなる。
 少しばかり、布都彦がこの状況を持て余し始めた頃、救世主がひょこひょこと身体を揺らしながら寄って来た。
「おや、双六ですか。面白そうなことしてますね」
 苛々してどす黒いオーラになった忍人の頭上から、暢気な風早の声が降ってくる。
「良いところに来た、風早。お前も手伝え」
「ははあ、柊に勝ちたい訳ですね」
 でも、三対一ですよ、と風早が柊の顔色を窺うと、柊は一つしか見えない瞳を細め、自信ありげに深く笑んだ。
「どうぞ。ご自由に、君達が相手なら遠慮はいりません。布都彦にも、良い練習になるでしょうしね」
 かくして、今の状況に至る訳である。右隣の忍人は、柊が駒を進める度に舌打ちしているし、左隣の風早は、いつもの人当たりの良さとは一転して無口になり、じっと盤上の戦局を見ては、的確なコメントを挟むだけ。
(というか、お二人とも私のことをすっかり忘れているな…)
 口を出すことも出来ず、意外と負けず嫌いの風早と、積年の鬱憤を晴らそうとしている忍人が、盤上に夢中になっているのを黙って見ている。
 時折、ちらりと柊が、「困った人達だね」というような顔で、苦笑を向けてくるものだから、余計に据わりが悪い。忍人辺りがそれを見咎めようものなら、猛反発するに違いない。
 だが、そこは生来、生真面目の塊のような布都彦である。
 目の前でレベルの高い勝負をされた方が、良い経験になるもの。そう思って、大人気ない二対一の戦いを、半ば見物している。
 柊が進めた駒を見て、一際忍人がイヤそうな顔になり、風早が眉根を寄せた時。
 布都彦は背後から近付いてくる気配に気付いた。
「ああ、遠夜」
(…。お茶)
 お盆の上に、湯気を昇らせる四つの湯呑みを載せた遠夜が、淡く表情を綻ばせながら、寄ってくる。
「忍人殿、風早殿。ここにお茶、置いておきますよ」
 遠夜が来たことにも構わず、次の一手を苦慮している忍人達は放っておいて、布都彦は自分の分を有り難く受け取る。三人に対する柊は、直接遠夜から湯呑みを受け取り、笑顔で礼とする。
(風早と忍人、機嫌、悪い?)
 顔も上げない二人の様子に、遠夜が首を傾げる。
 彼が喋る言葉は分からなくとも、雰囲気でそれを察した布都彦は、苦笑いをして遠夜に応える。
「お二人がこんなに負けず嫌いだとは思わなかった」
「ふふ、昔からこんな感じでしたよ。特に、忍人はね」
 目の前で旧友二人が、眉間の皺もくっきりと、悩んでいるのを眺めながら、柊は飄々と笑う。
「黙れ、変態。そのバカ高い鼻っ柱、絶対に叩き折ってやる」
「忍人、あんまりにも口が悪いですよ。せめて変人にしてあげて下さい」
 まだにやにやしている柊を睨みながら、駒を進める。これでどうだ、と言わんばかりの表情で、柊の反応を窺う。ちらり、と、盤上を一瞥して。
 柊は無造作に次の手を打った。
「うっ…」
「…そう来ましたか」
 その一手に、二人が同時に呻いた。
 布都彦の衣の裾を、遠夜の浅黒い指がちょいちょいと引っ張る。
(…早く行った方が良い。でないと、神子が、全部食べてしまう)
 遠夜に示されて、お重を囲む千尋達を見やり、ああと布都彦は納得する。早く来ないと、食べ物がなくなってしまう、ということだけは分かったが、幸か不幸か「千尋が全部食べてしまう」というところは伝わらなかった。
 布都彦は微笑み、遠夜の心配そうな顔を見上げる。
「お三方の気が済んだら、私も行く。こっちは気にしないでくれ」
 微妙に困っている顔の遠夜が千尋達の輪に戻っていくのを、ちらっと見ながら、布都彦は内心で嘆息し、正面の盤上に目を戻した。
 両隣では、普段冷静な二人がガラにもなく、熱くなっていて。正面では柊が、相変わらずの意味深な笑顔を浮かべていて。
(…こっちが済んだら行く、とは言ったが…。本当にこの人達、満足するんだろうか…)
 自分の予想が物凄く当たりそうな予感を噛み締めつつ、大人気ない三つ巴の意地の張り合いを見物するべく、布都彦は背を正して座り直した。



   *   *   *

「あれ、向こう、全然食わないのかー?」
 忍人達にお茶を持って行った遠夜が、一人で帰ってきたのを見咎め、サザキが声を上げた。
(…負けられない、らしい)
「風早も忍人さんも、どうしても柊に勝ちたいのね」
 白い布の上には、既に千尋とサザキの姿しかない。
 わいわいと食事をして、満腹したと思ったら、那岐はいつものようにふらりと昼寝に消えてしまった。アシュヴィンは、千尋が面白半分で「髪いじらせて」と頼んだら、玩具にされるのは好かなかったのか、遠夜と入れ違いに忍人達の方に行ってしまった。
 頬を膨らませ、拗ねた千尋が、代わりとばかりにサザキのぼさぼさの長髪をいじり始めたが、サザキは千尋相手にイヤがっても始まらないと分かっていたので、胡座をかいて座って、彼女の好きなようにさせている。
「柊も大人しく負けてやるような奴じゃないしなぁ」
(…すごく、楽しそうだった)
 湯呑みを渡した時の柊の表情を思い出し、遠夜が呟いて、千尋とサザキのすぐ隣に並んで座る。
「また忍人さんが苛々しそうね」
 癖のあるサザキの赤毛を、ぶっとい三つ編みにしながら、千尋がのんびりと笑う。
「『柊に勝つまで帰らない!』とか、誰か言い出したりしたら、俺達きっと、今日はここで野宿だぜ」
「あ、それはそれでいいかも。春だから暖かいし。遠夜、今夜は雨降る?」
 一度編んだサザキの髪を遠慮なく解き、千尋は次の髪型を考案し始める。今日はとことん、サザキの赤毛で遊ぶつもりらしい。
 千尋の言葉に、薄い雲がたなびく透き通った空を見上げ、遠夜は金色の瞳を細めた。
(…大丈夫、雲は、遠い)
「大丈夫だって、サザキ」
「おいおい、姫さん。忍人に大目玉食らうぜ」
 女の髪ほど触り心地が良いモノでもないだろうに、と千尋が嬉々として触っている感触をくすぐったく思いながら、我慢する。
「いいじゃない。みんながいれば、怖くないわ」
「俺は忍人が怒る方が怖ェと思うぜ」
(…忍人、神子には優しい)
 ぽつりと零した遠夜の呟きが届くのは千尋だけ。そうかなぁ、と首を傾げる千尋の気配に、意味が分からないサザキも、続いて不思議そうな顔をする。
 散々いじくったサザキの赤毛を、千尋が放す。
 千尋の細い指で編まれた三つ編みが二本、顔の両側に垂れた。
「出来たっ」
 弾んだ歓声を頭の後ろで聞きながら、サザキは呆れ混じりで自分の髪をつまみ上げる。
(こんなことして、何が面白いんだかなぁ)
 千尋のその感覚は分からなくても、ほんの些細なことで彼女が幸せそうにしているのは、悪くない。そして、それを見ているのも。
 急に千尋の声がしなくなったことを訝しんで、背後を振り返ると。
「姫さん?」
 遠くを見つめる千尋の深い蒼の瞳に、広い草原が映っていた。
「姫さん…」
「サザキがいて、遠夜がいて、風早も那岐も忍人さんも布都彦も柊も、アシュヴィンもいて。天鳥船に戻れば、岩長姫とか、夕霧とか、カリガネとかもいて」
 サザキの赤い目と、遠夜の金色の目が、ぼんやりと呟く千尋の横顔を見つめている。
「いつまでも…。いつまでも、こうしていられたら、いいのにね」
 ぽつり、と千尋が零す。
「みんなと、天気の良い日にピクニックして、夜まで遊んで、一番星を見ながら天鳥船に戻ると、カリガネがご飯作って、待ってくれてるの。満腹になるまでご飯食べて、お風呂に入って、さっぱりしたら、星を見て、疲れた頃に寝入っちゃう…」
 言葉を失ったサザキの表情を見て、千尋は淡い笑みにちらりと苦さを混ぜた。
 みんな分かっている。それが、永遠には続かない。春の夜の夢のようなものだと。
 すくっと立ち上がり、千尋はぽんっとサザキの頭に手を置いて、ぐるりと彼の顔を逆さまに見下ろした。いつもと逆に、千尋に上から覗き込まれたサザキが口を開くよりも先に、千尋が突然、顔一杯の笑みを浮かべた。
「ね、素敵だと思わない?」
 その声も、さっきよりもずっと浮かれて、はしゃいでいて。
 彼女の蒼い瞳に映った光に、サザキは口に出そうと思っていた言葉を、飲み込んだ。
 その代わりとばかりに、彼も千尋に負けじと破顔一笑する。
「…そうだなぁ。それに、もう少し冒険が加わってれば、言うことねぇな」
「ふふ、そうね。サザキにはそれが必要ね」
 逆さまの視線を合わせたまま、二人はくすりと笑みを交わす。
 夢は優しい、愛しいもの。
 けれど、決して夢の中では生きられない。
「サザキ、今度、また空の上に連れてってね」
 うきうきと弾んだ声でそういうと、千尋は満足そうに笑って、胸一杯に、春の甘い香りを吸い込んだ。








2008年夏コミにて無料配布した遥か4オールキャラ、サザ千風味なお話。
やっぱり私はオールキャラが肌に合うのか、書いててめちゃめちゃ楽しかった記憶があります。時間無くてすっごい焦ってた記憶もありますが(笑)
予想外に崩れてくれる忍人が書き易くて、アシュヴィンが書きにくかったです。柊は予想通り弄りやすい奴でした。でも、全体的には扱いやすい子が多い印象です、4は。

これを書いた時は、確かまだサザキしか落としてなかった記憶が…。
かと言って、今現在、遠夜を落とそうと思ったら何故か落ちてた布都彦しかクリアしてません(笑)
なんか、どうしても3と比べちゃうと物足りなくてですね…。折角買ったので、もう少し落とそうとは思います(笑)
遠夜リベンジと、那岐と柊あたりは落としたいな…。相変わらず、世間的な人気とか、出来の良さそうなルートとか、そういうのは一切気にしません(笑)自分の好きそうなキャラをやりたいだけ(笑)

2009.09.29