小さな星





 ある晩、朔が一人で泣いているのを見た。
 理由は、それだけで十分だった。






 今日、時空を遡る。
 そう決めた日は抜けるように透き通った、美しい空の日だった。
 その日、望美は朝からずっと、敦盛にくっつき回っていた。彼が、照れて気まずそうにしているのにも一切構わずに、ころころ笑いながら、いつも以上に。腕を絡めて、顔を寄せて、くだらないことで大笑いして。
 今日だけなんだと、自分の中で理由をつけて、はにかむ顔や微笑む顔を、じっと見ていた。
 そのくせ、待っていたのは、チャンスを窺っていたのは、ここからの旅立ちだなんて、とても口には出せなかったけれど。
 泣きながらなんて。ラブロマンスの王道みたいな、ミステリックで感情的で、涙なしには語れない別れなんて、断固お断りだった。
 意地でも、頑固にも。最後まで笑い通してやると思いながら、そっとその機会を探していた。






 いつだって、気を利かせてくれるのは、ヒノエか弁慶、朔あたり。高校のクラスメイトといつまでもくだらないことで盛り上がれるみたいに、放っておいたらいつまでも一緒にいられる仲間達の輪の中から、にこにこ笑いながら、こっそりと二人を抜け出させてくれる。
 今日も、いつもみたいに、何をするでもなく揃ってしまった梶原邸で、朔がふと、並んで座っている望美と敦盛に気付く。
 話の輪をこそっと抜け出して、二人の肩を軽く叩く。躊躇う二人に、人差し指を唇に当て、朔はふわりと微笑んだ。
 ここはいいから、行ってらっしゃい。笑う目がそう言っている。
 次に会うのは、まだ自分を知らない朔。
 望美は思わず泣きそうになって、朔の肩に顔を押し付けた。
 こんな風に笑いながら、仕方ない子ね、って言って慈しんでくれる朔ではない。
 けれどそれは、自分が求めた道。望美は何でもない顔をして朔から顔を離すと、大きく頷いて、破顔一笑した。
 敦盛と顔を見合わせて小さく笑い、好意に甘えて、こっそり梶原邸を後にする。部屋を出る間際に振り返ったら、朔の横でヒノエもにやにやしていて、望美は無性に嬉しかった。
 たとえ自己満足でも自分勝手でも、この人達に幸せになって欲しい。それが、彼女にとっての全てだった。





 遠くで、春を告げる鳥の声がする。
 散歩がてら東の京極の向こうまで歩いて行くと、あっという間に原っぱに出る。すぐ近くは六波羅のはずだが、その喧騒なんて嘘のよう。小さな花を控えめにつけた雑草の花畑の真ん中で、望美は唐突に足を止めた。
 迷っていたら行けなくなる。
 もう、意を決しなくては。
 するり、と、腕と身体の間から望美の手が抜けていって、敦盛はいぶかしんで振り返ろうとする。
 だがその背中を、望美の咄嗟の声が押し止めた。
「振り返らないでください」
 言いながら、望美は一歩後ずさった。足の裏で、踏み潰した雑草の茎がぱきっと鳴った。
「…神子?」
 前から聞こえてくる声は、驚きと疑問と当惑が入り交じって、思ったよりも弱い。
 それほど身長差のない二人は、目線もほとんど一緒だ。望美の目の前に、長い髪を結い上げた敦盛の頭が見える。
「…お願いですから、振り返らないでください」
 懇願するように呟いて、更に一歩下がる。
 このまま別れて、本当にいいの?
 望美の心に、そう、ふつふつと疑問が湧いてきた。




 この間まで、望美は世界一幸せなはずだった。
 敦盛も取り戻して。守りたい人と大切な仲間達がいる世界に残ることに心残りもなかったし、ここで生きていくことに不安もなかった。
 だが、ある晩、望美は見てしまったのだ。朔が、夜中に一人で、ひっそりと涙を流しているところを。
 その時気付いてしまった。自分は、今すごく幸せかも知れないけれど、仲間達はどうだろう。
 朔は? 将臣は? 皆は?
 体調が悪そうだった譲。何かを隠していた弁慶。ヒノエの正体。将臣の行方。
 自分は、何も知らないではないか。
 真相を尋ねるのには、今ではもう遅過ぎる。
 だが、あの頃ならばどうだろうか。これまで二度辿ってきた、戦乱の頃ならば。もう一度あの道を通ったなら、次は何か違うものが掴めるのではないだろうか。




 だが、そんな思いつきに、自分の中の冷静な部分が、静かに、冷酷に反問してくる。
 皆を助けたいなんて、叶えられるかどうかもわからない、そんな大それた願いと引き換えに、今目の前にいる人を哀しませてもいいのか、と。
 敦盛を救いたくて通ってきた運命だ。それを捨てるのは、折角手にした彼の未来を捨てるも同然ではないか、と。
 今更な自問に、決意が陽炎みたいに揺らめいた。そんな望美の内心の揺らぎに気付いてか、敦盛が静かに口を開いた。
「……帰られるのか」
 その声があんまりにも落ち着いていて、望美は息を呑んで、逆に泣きたくなった。
 この人は、こうして静かに受容することが得意過ぎる。
 貴方が望むなら。皆が望むなら。
 辛いなんて思うよりも前に、簡単に受け入れてしまうのだ。
 違う、と叫びたかったけれど、きっと何を言っても言い訳にしかならない。望美は唇を噛んで、声が震えるのを堪えながら続けた。
「……帰、る訳じゃ、ありません。…でも、行かなくちゃならないんです」
 自分の手の中には、未来がある。
 今はまだ影も形もないけれど、いつかきっと掴みたい、いや、掴めるはずの未来が。その未来の可能性がある限り、絶対に負ける訳にはいかなかった。
 絶対に、諦めることは出来なかった。
「…神子が、決めたことを覆すような人ではないことはわかっている」
 彼の背中は、思ったよりも頼りなくなければ、震えても、彼女との別れを恐れてもいなかった。ぴんと背筋を伸ばして、凛と立っていた。
「…っ、敦盛さん…っ」
 そんな姿を目にしてしまったら、崩れてしまうのはこっちの覚悟の方だ。
 だが、去る者が残す者に出来ることは、せめて、傷つけないように明るく、笑顔で行くことだけ。望美は深呼吸をして、声に混じった濡れたものに気付かれないよう願った。
「…必ず、また、ここに戻って来ます」
 どうか、それまで。
 次の言葉をどう言えばいいのかわからず、なんとか震える声を飲み込んだ望美の言葉の後ろを、敦盛がいともあっさり引き継いだ。
「それでは、気長に待っていることにする」
「…いいんですか?」
 あっけにとられて、鳶色の目を瞬かせる望美に、敦盛は穏やかに言った。
「貴女は、何も言えずに消えた私を、諦めずに探し出してくれた。この世に引き戻してくれた。
 だから、次は、私が貴女を待つ番なのだと思う。貴女が、貴女の望みを叶えて帰ってくるまで」
「敦盛さん…」
 名を呼んだ声が、弱く掠れた。こんなでは、涙が出そうになっているのを必死で堪えているのだと一発でバレてしまう。
 しかし、わかっていて黙ってくれているのか、敦盛は調子を変えずに続けた。
「それに、こうして一言言ってくれたのだから、何も言わずに消えた私より、やっぱり神子の方が、ずっと優しいと思う」
「そんなこと、ないです。…私が知っている限りの人の中で、敦盛さんほど優しすぎる人なんていません。…だから、好きなんですけど」
 その言葉に、初めて敦盛の肩がはっと揺れる。
「神子」
「…私、そろそろ行きますね」
 だが、望美はあえてそれを振り払うように、強い口調で行った。
 俯いていた顔を上げると、目の前にはほとんど変わらない体格の背中が映っている。表情なんて読み取れるはずのないこの背中で、彼は一体どんな表情を浮かべているのだろう。
 普段感情を出すことがあまりなくて、無表情な敦盛だが、望美はその無表情の下を探すのが楽しかった。
 どんなことを考えているの?
 楽しいこと。嬉しいこと。
 それとも今日の夕御飯だったりして。
 そんなくだらないことを、いつまででも想像していられる。
 けれど、今はそれを考えるのが怖い。
 もし、望美に行って欲しくないと望んでいたり、何も言わずにそんなことを決めて、何も言わずに行ってしまうことに、怒りを覚えていたとしたら、なんて。怖くて、想像することが出来ない。
「皆を幸せにして、絶対、敦盛さんのところに戻って来ますから」
 これは、私だけの望み。私だけの願い。全て、私の我侭。
 でも、もう後には引けない。
 その代償に、痛みも悲しみも、全部自分が引き受けるから。
 かき集められるだけの強がりをかき集めて、望美は精一杯明るく言った。
 せめて、別れだけは笑顔で、だ。
「行ってらっしゃい、神子」
 そう、敦盛が言って。望美はきつく唇を噛んで、弾けるような笑顔で答えた。
「…行ってきます!」
 その瞬間、ぱっと敦盛が身を翻して振り返ったのが見えたけれど、時空の狭間に吸い込まれる光に溶け込みそうだった望美には、その表情までは分からなかった。







 言ったら望美は驚くかも知れないけれど、彼女がここから去ろうとしていることは、敦盛はとっくに気付いていた。
 あれだけいつも一緒にいて、飽きるまで彼女の表情を見ていたのに気付かない方がどうかしている。
 時折思い詰めた顔をして、何やら考え込んでいた望美。
 ぎゅっと口を引き締めたかと思ったら、次の瞬間泣きそうになったり。
 相談もしてもらえないくらい、自分は頼りないのかと思い、へこんだのも一度や二度ではない。行かないで欲しい、そう、ずっと思い続けてきた。
 だが、やはり、望美は独りで行ってしまう。もう、敦盛の手の届かないほど遠くへ。
 けれど、それでも敦盛には、望美が決めたことを否定することは出来ないのだった。
「行ってらっしゃい、神子」
 望美の声は、震えていたけれど笑っていた。
 だからきっと、自分がすべきなのは、笑って彼女を送り出すことだ。
 漆黒の目をそっと伏せて、凪いだ心地で望美の背を押した。
「…行ってきます!」
 大きく、望美が告げる。
 その宣言に、身体が反射的に動いた。
 振り返った先で目に入ったのは、鈍く鮮やかな空の色と、旺盛な雑草と、光に飲まれる一瞬前の赤毛と薄紅色の衣の最後の名残。
 ほんの刹那でも見逃すまいとする敦盛の前で、それは彼を嘲笑うように、瞬きのうちに消えた。
「神子…」
 手を伸ばしても、彼女の姿はどこにもない。一瞬前まで、彼女は確かにそこにいたのだと言える証拠も何もかも、残っていなかった。まるで、初めからここにいたのは、自分だけだったような錯覚に陥ってしまう。
 ざわっと風が鳴って、空気と白い花をつけた下草が揺れる。ちらちらと視界が瞬くのは、風が草を揺らすせい?
 涙が浮かんで、溢れるせい?
 だが、呆然と立ち尽くしていても、悲しみは彼を押し潰しはしなかった。悲しみよりも強い感情に、ふわりと表情が綻ぶ。
 彼女は、果たして何と言っていた?
「…必ず」
 必ず、また、ここに戻ってきます。
 だから。
 甘い春の風が世界を霞ませる。その輪郭をぼやかせる。
 待っていて。
 彼女が口にしなかった言葉が原っぱに谺する。
 いつかきっと、会いに行くから。それまで、待っていてください。
 風の中で、そう、望美が笑った気がした。
 敦盛は、穏やかな表情で顔を上げた。視線は遠く、雲の先。何処かで、自分を思ってくれている筈の彼女へ、独り言を送る。
「ああ…。きっと、貴女を待っている」
 弾んだ声が、春の透明な空の向こうに、緩やかに吸い込まれていった。







 どれだけ、この暗闇でじっと身を潜めていたのだろう。
 鈍い痛みを愛おしげに抱いたまま、時が流れる音を聞く。時間は川のようなもの。高い方から低い方へ、過去から未来へ流れて行く。過去は彼女が知るよりも遥かに高いところから存在し、未来は彼女が知りえないほど底へ伸びて行く。
 行かなければ。
 ようやく顔を上げれば、白龍の逆鱗が戻り道を教えてくれる。過去にも一度、通った道。
 これから何度、この闇に戻って、この道を辿って、過去をこの手に掴むのだろう。それは彼女にも皆目見当がつかなかった。
 だが、ただ一つ確かなものは。
 両足を伸ばして、望美は立ち上がる。しっかりと、両足で地を踏み締める。
「…。また、会いましょうね」
 瞳を閉じて呟くのは。
 遠い遠い、未来の約束。













 敦盛と望美の関係がすごく好きです。力関係、っていうか(笑)、バランスっていうか。
 やっぱり、強いオナゴ好きなので、望美が敦盛を守るって公言しているのも好きだし。逆に敦盛がそんな望美に感謝して助けられていつつも、彼自身がすごくしっかりしていて、責任感も正義感も強い人、っていうのもすごく好きで。
 私の敦望の場合、絶対に本当のハッピーエンドが来るまでが、すごく長い訳ですが(笑)
 望美にとって、例え自分のことを覚えてなくても、時空を越えた先で敦盛に会える、っていうことはすごく大事なんだろうなぁ、と思うのです。
 ていうか、そんな敦望にきゅんきゅんする訳です(笑)

2007.4.15