境界線





 私の身体は、こんなにも軽い。
 すうすうして、からからして、隙間風が障子を吹き抜けるような音が、絶えず私の内側で響いている。
 いっそ、このまま風にさらされて消えてしまえたら。
 そう自暴自棄になってみても、こんなに軽いはずの身体は、さらさらと消えてはくれない。
 私は、初めから、こんなに空っぽだったかしら?




 …違うわ。
 私の中の、軽くなってしまった部分は、全部あの人にあげたもの。
 私の心。私の記憶。私の思い。
 だからきっと、それはあの人と一緒に消えてしまったんだわ。






 今朝は、どうしても起き上がることが出来なかった。
 理由はわかっている。月のものが来たときはいつもこうだ。ずっしりと身体全部が重くて、押し寄せる虚脱感と鈍痛に気力までも奪われる。ゆるゆると、龍脈に生命力を吸い取られていくようだ。
 朝目が覚めた時に身体が起こせなかった朔が、今日は動き回ることは無理だから、皆だけで行って来て欲しいと言うと、意外にも、ついでだから今日は休みにしようという話になった。申し訳ないとは思ったが、少し安心はしていた。彼女や望美、譲たちが何処で何をしようと彼らの勝手で済むが、兄の景時や九郎はそうは行くまい。源氏の上層部として果たすべきことも多いだろうに、日々振り回しているのは、なんとなく後ろめたかったからだ。
 そよ風の気配だけがする外の物音に耳を澄ませる。
 庭で、ウグイスが鳴いていた。
 兄や九郎は屋敷にいないのだろうが、望美や譲、白龍はどうしたのだろう。屋敷の中にいるのか、どこかに出掛けているのか。女房達も、女主人の不調はわかっているから、気配を消してくれているのだろう。
 人の動く感覚はまったくしなかった。
(身体の中身がひっくり返りそう…)
 乱れた五行が身体の中をぐるぐる回っている。
 熱っぽい目で、ぼんやりと天井の梁の染みを眺めた。
(…そういえば、今日は弁慶殿は屋敷にいないのかしら)
 いつ頃からだっただろう。月のものが来る度に、寝込んで唸っていた自分のところへ、彼が身体の調子を整える薬湯を持って来てくれるようになったのは。黒龍を失って、京へ来て、しばらく経ってからだったか。月のもののことを景時が口にするとは思えないし、今となっては経緯がまったく思い出せないが、何かちょっとしたきっかけの結果、弁慶が朔に薬湯を持って来てくれることになったのだったと思う。余計な手間を与えていると思いつつも、朔は彼に感謝していた。月のものの時は本当に体調が悪くて、弁慶の薬湯のおかげでかなり楽になっていたのである。
 別に、期待している訳ではなかったが、いつもの気配がないのも、それはそれで落ち着かなかった。
 胸の上の上掛けを首まで引っ張り上げて、身体に巻き付けながら寝返りを打つ。ようやく、瞼がとろんと落ちてきていた。
 瞼と瞼がくっつきそうになった瞬間、回廊をさらさらと擦る衣擦れが耳につく。
「失礼します、…朔様?」
 几帳の影から、女房の一人が顔を出した。
「…どうしたの」
 折角、寝付けそうだったのに。
 朔はほんの少し苛立ちながら、身体を声のした方へ向けた。
 若い女房は、主人の気だるそうな様子に心配するような顔色をちらりと見せて、おずおずと口を開いた。
「あの…、朔様のおかげんは如何ですか、と。…弁慶殿が」
「弁慶殿が?」
 やはり、出掛けていなかったのか。忙しい身だろうに、こんなところに居ていいのか、と。心配すと同時に、妙に安堵もした。
「…いいわ。どうぞ、お通しして」
 どんなに調子が悪くても、まさか寝たまま部屋に通す訳にはいかない。朔はぱっと起き上がると、汗衫の衿を整えて、座敷の上に座った。
 先程とは変わって、女房の足音と、もう一つの足音が、交互に響く。
 部屋の前で足音は止まって、弁慶の苦笑混じりの声が上がった。
「すぐにおいとましますから。どうぞ、そこにいらして下さい」
 どうやら、下手に気を回した女房が、下がろうか下がるまいか、逡巡したのを見て言ったらしい。
 余計な気を。朔はひっそり溜め息を吐いた。私と弁慶殿に、一体何があるというのかしら。
 その時、几帳の裏から聞き慣れた穏やかな声が掛けられた。
「お邪魔しても?」
「ええ、どうぞ」
 朔の返事をちゃんと待ってから、弁慶が几帳から姿を現した。黒い長衣は脱いでいたので、普段はあまり見慣れない、長衣の下の着物姿だ。こざっぱりとした麻の上下は、飾り気のない単衣と袴。洒落を楽しむ身分ではい上に、好む性格でもないのだろう。清潔感はあるが、とても素っ気ない。片手に盆を持っていたが、その上に、大振りの素焼きの椀が乗っていた。座敷の上に座っている朔の姿を認めると、彼は穏やかな造作の顔を薄く緩ませた。
「寝ていて構わなかったんですよ。辛くないですか」
 座敷のすぐ前に膝をついて、盆を床に置く。
「…ええ」
 呟いて、朔は引きつる顔で無理矢理笑みを浮かべた。正直に言って、せいぜい座っているのが限界だったが、弁慶に弱音を吐いたところでどうなるものでもない。相変わらずの見た目によらない頑固さに、弁慶は苦笑いして、ぴしゃりと言い放った。
「まったく、我慢強いのは良いことですが、我慢し過ぎるのは貴女の悪い癖です。景時や望美さんが、どれだけ貴女の心配をしていると思っているんです?辛い時は辛いと口にするのも必要なことですよ」
 確かに、頑固な自分の性格は重々承知している。はっとして、朔は小さく謝った。
「…すみません」
「…ああ、いえ」
 椀を手に取りながら口も動かして、弁慶は困ったように笑った。
「僕の方こそ、そういうつもりではなかったのですが。少しきつく言い過ぎましたね。すみません」
 言って、朔に椀を差し出す。
 強い薬草の匂いが、つんと鼻を刺す。まさに良薬口に苦し、を体言している、どろりとした液体が椀の中でたぷたぷと揺れている。
 朔は有り難くそれを受け取った。
「苦いですけど、我慢してくださいね。それでも、多少は美味しくなるよう研究してるんです」
「…これで?」
 椀の端にほんの少し口をつけて、朔が小さく笑った。それにしては、驚くくらいに不味すぎる。
 くすくすと、静かに笑う朔を見下ろしながら、弁慶は彼女のからかいまじりの笑い声に、悪戯っぽい口調で応じた。
「ええ、これでも」






『弁慶さんでも、朔に負い目ってあるんですね』
 本当に何気ない顔をしながら、そう呟いた望美。
 薬研を操る弁慶の手元を見るともなしに見つめて、昼寝から目覚めたばかりの、まだ少しぼんやりした顔で、そう言った。
(…負い目、か)
 まったく望美は、朔に焼く世話の理由を、よく当てたものだと思う。今まで誰にも口にしたことなどなく、これからも誰にも口にすることなどないだろう、その理由を。
 後悔は、欠片もしていない。
 あれは、あの時の自分に出来る最善だった。
 龍脈に呪を掛け、応龍を滅ぼしたことを責められたとしても、胸を張って、そう言うだろう。
 結果的に清盛は滅びることがなく、怨霊が生まれてしまったとは言え、それはあくまで結果論。
 勿論、自分が蒔いた種は、一本残らず自分で刈り取るつもりであるが、応龍を滅ぼしたこと自体を悔やんでいるかと問われれば、否、と即答するだろう。
 だから、正確に言えば、朔への気遣いも負い目ではないはずだが、彼は同時に理解してもいた。口ではなんと言おうと、京の多くを狂わせた責任の重さを、己がどれだけ自分の罪だと感じているのか。
 その点、望美の指摘は、的確かつ正確だった。だったのだが。
(彼女は何を隠しているんでしょうねぇ)
 先程の望美の様子は、どう見ても普通ではなかった。
 あの瞬間の勝者は、弁慶の痛いところを正確に指摘してみせた、望美の方だったはずだ。しかし彼女は逆に、自ら負けを宣言したのだ。
 朔が必死になって椀を傾けているのをぼんやりと眺めながら、とりとめもなくそんなことを考えていると、視線に気付いた朔が、ふと、黒い瞳を上げた。
「…」
 また、何か考え込んでいるみたい。焦点の遠い弁慶のしせんが、自分の顔のあたりを通過しているのを感じて、朔は苦笑した。
 弁慶は、考え事に集中し始めると、驚くほどに表情が消える。宙の一点を見つめたまま、石のように固まって、表情という表情が、全部抜け落ちるのだ。
 とは言え、これ程までに深い考え事は、普段はあまり見たことがないけれど。
(…ご自分で気付いているのかしら。考え事をしているときの弁慶殿、本当に真っ平な顔になるって)
 仮面みたいにいつも浮かべている、穏やかな笑みがないと、意外と彼は鋭い顔をしている。
 鋭い目、鋭い輪郭。それはいつもの見慣れた男の顔ではなかった。
 しばらくの間、横目で弁慶の顔を窺っていた朔は、内心の嘆息とともに視線を戻した。何にしろ、それは朔には関係のないことだ。
 頭を弁慶の肚を探ることから離し、ふと、気になったことを口にする。
「そういえば、弁慶殿。望美を見ませんでしたか?」
「…望美さん、ですか?」
 ゆっくりと顔を上げ、弁慶が呟く。じわりとその顔に広がるのは、疑問でも驚きでもなく、貼り付けたような、いつも通りの穏やかな笑顔。
 一瞬、その表情の変化に、朔はわずかに目を瞠った。
「…ええ。朝は私の傍にいてくれたのですけれど。姿を見なくなったので。ご存知ありませんか?」
「彼女なら、しばらく前に向こうの局に入って行くのを見ましたよ。きっと、寝ているのではないですか。慣れない場所で、毎日大変でしょうからね。張っていた気が緩んだのでしょう」
 にこやかにそう答えた弁慶の表情は、いつも顔に浮かんでいる微笑と、寸分も違わなかった。
 これは、嘘だ。
 瞬間、その言葉が、朔の脳裏に閃いた。
 この男は嘘を吐く時には、呆れるくらい平然とした顔をする。そして、本当のことを告げる時には、何処か苦い顔をする。
 今、確かに弁慶は、瞬く間に普段と変わらぬ表情を張り付けていた。
「…そうですか。それなら良いのですけれど」
 しかし、望美に関して嘘をついて、この男が何の得をする?
 何を隠さなければならない?
 苦い薬湯と一緒に、喉まで出かかった疑問を嚥下して、頭の中でぐるりと考えを吟味する。
「もう日も傾きかける頃ですし、起こしてきましょうか。朔殿が心配していたとお伝えしておきますよ」
 空になった椀を朔の手から取り上げて、弁慶はとっとと立ち上がった。
「…あ、ええ…」
 考え事の途中で話しかけられたせいで、瞬く間に、まとまりかけていた考えの答えが霧散してしまった。立ち上がった弁慶を下から見上げて、朔は密かに眉をひそめた。この、すっきりしない、もやもやした気持ちはなんなのだろう、と。
 朔が感じている違和感を知ってか知らずか、朔を見下ろした弁慶が、ふわりと穏やかに微笑んだ。
「明日もだるさが残るようなら言ってください。また、作ってきますから」
 その微笑が、常に揺るがぬ仮面の表情だということくらい、朔はよく知っていた。味方を騙すことこそ、彼の謀略の一手目だということも。
(…考えても無駄ね)
 嘆息をつき、だるさで重い表情を動かして、朔は弱く弁慶に笑い返した。
「ええ。そうさせて頂きます」







 隣の局の中の気配を窺って、まだそこで望美が寝ているのを確かめると、弁慶は譲を探して母屋に足を向けた。
 昼間の今だ。二人きりで望美に会うのは賢明ではない。譲辺りに声を掛けるのが無難だ。
 是非とも彼女を問い質したいと思うが、そこはじっと堪える。物事の効率的な解決に、時機と状況判断は欠かせない。今は、その時機ではなかった。
(しかし…、やはり朔殿が、望美さんに黒龍の事を話しているとは思えない)
 朔はこれまでほとんど黒龍のことを口に上らせたことはない。いくら望美が白龍の神子だとしても、二人がかなり親しかったとしても、何か言っていると考えるのは無理がある。
「…だとしたら、何故」
 瞳を細めて、一人ごちる。
 望美はあの時、何故あれほど動揺したのか。
 何故あんな台詞が言えたのか。
 一時の思案の後、弁慶は緩やかに首を振った。
(…考えても無駄、ですね)
 きっと今は時機ではないのだろう。時機ではない時に何をしても無駄だ。かえって状況を悪くするだけになる。
 望美は果たして何を隠しているのやら。
(…今度は、朔殿が嘆くようなことにならなければいいのですが)
 無意識のうちにそんなことを考えていた自分にはっとして、弁慶は渡殿の真ん中で足を止めた。
 ひや、と春の宵の涼しい風が首筋を撫で、身体の熱を下げてゆく。
「…まったく、僕も大概、感傷的ですねぇ」
 口と頭と、考えていることが真反対とは。
 それでも、こんな自分を後悔しようとは思わない。信じるものは己だけ。自ら培ってきた、己の勘と知識と判断だけだ。それが全てだ。
(とにかく、結論を出すのはもう少し先。…ですかね)
 誰にも聞こえぬよう、そっと声を殺して、苦い苦い忍び笑いを零した。














カップリングでもいいんですが、それよりはやっぱり、互いにひっかかる相手、くらいの弁朔が好きです。
黒龍のことがある弁慶と、それとなくかけられる気遣いの理由がわからない朔と。
だから、仲良くころころしてるより、険悪げな方が…、とか思ったらこんなのに。あれ。(笑)
私の書く弁朔に恋愛要素が含まれる可能性は限りなく低そうですが、別にそれでもバッチ来いですよという願望も込めて、弁朔と主張していこうかと(笑)

それにしたって、プレイし始めた頃にたまたまこの二人を一緒に戦闘で使うことが多くて、仲間同士の好感度で、この二人がものすごく仲良くなってなければ、このはまりっぷりはなかっただろうなぁ(笑)

2007.4.30