流星の夢





 恐れるものなど、この世になかった。



 …まして、狂おしいほど憧憬し、焦がれる者など。




「MAKUBEX…」
 薄暗い部屋の中、数台のコンピュータの前に座り込む少年の手が、目にも留まらぬ速さでキーボードを叩く。発光するモニタに照らされた顔は無表情で、蝋人形の様に白い色をしている。
「いいのかい?見送らなくて」
 扉に体を預けて立つ細い姿が、静かに言った。艶やかな黒髪に揺れる金の鈴が、りん、と鳴る。
 ぱち、とMAKUBEXは部屋中に響くような音で、勢いよくキーボードを叩いた。ほんのわずかに首を回し、後ろに立つ人間を投げやりに見やる。
「…君こそ。こんなところで油を売ってていいの?花月クン」
「生憎と」
 苦笑し、花月は扉から身を離した。
「僕は、自分の命より大事な人を奪っていく、その相手の姿を見るような趣味はなくてね」
 MAKUBEXの後ろに立った花月が、ぽつりと呟く。皮肉げに歪められた口元を見れば、彼がどんなに苦々しい思いでここに立っているのかがよくわかる。
 花月から視線をモニタに戻して、MAKUBEXは素っ気なく応えた。
「銀次さんは、望んでここを去るんだ。相手の奴に責任がある訳じゃない」
「…MAKUBEX?君がそんなことを言うとは思わなかったな」
「そうかな?」
 答えるMAKUBEXの声は、冷淡と言えるくらいにあっさりしていた。前髪に掛かるくらいの銀髪が、天藍石の瞳に暗い影を作る。
「変わったのは銀次さんだ。この無限城と、ボクらを置いて去ろうとしている。
 何処までも行けると夢を見せておきながら、銀次さん自らその夢を撃ち砕いた」
 天藍石の瞳に剣呑な光が輝いて、MAKUBEXは再びキーボードの上で細い指を躍らせる。
「MAKUBEX…」
 言葉を呑み、花月は男にしておくのは勿体無い、麗しい唇を噛んだ。そして、何も言わずに踵を返す。りぃん、と金の鈴が切なげに響く。
 見送りなど死んでもしたくない、というMAKUBEXの気持ちはよくわかる。


 あの銀次が、無限城を去るとは。
 しかも、彼らのまったく知らぬ、どこの馬の骨とも知れない奴と。


 だが、花月は銀次の背を見送らずにはいられない。最後の一瞬まで、その背を。
 狂うほどに憧憬し、愛し、望んでいる男の背中を。
 たとえ、その隣に立つ者が誰であろうと。







 …あの一瞬のことは、生涯忘れることなどないだろう。


 MAKUBEXにとって、コンピュータを扱うことは生きていることと同義だ。
 本能のようにキーボードを叩き、頭の中に計算式が浮かぶ。
 自分でも意識出来ないくらいに速くなっていく、キーボードを叩く手。まるで音楽のように、規則正しく耳に届く、キーボードを叩く音。微かに呻る、コンピュータのノイズまるで催眠術を掛けるような一定の速度が、全身に満ちる。
 体はここにありながら、意識は遥か遠く、記憶の底の刻まで遡る。



 初めて耳にする声なのに、驚くくらいに耳に馴染む声だった。
 雷帝の…、いや、銀次の声は。



『…誰だ』
『っ…!』
 触れることも敵わず、灰となって消えた蝶。
 声もなく、色もなく。ただ、彼の頬を流れる涙。
 踏み出したブーツの下で、瓦礫は静かに砂塵となり。
 涙は瞬時に虚空へ消えた。



 MAKUBEXの人生を変えたワンシーン。それが銀次との出会いだった。
 今となっては、それが偶然なのか必然なのかわからない。広大なロウアータウンで出会えたということだけを言うなら、確かに奇跡だ。
 でも、銀次と奇跡とは、常に隣に並んでいるものだった。
 起こり得ないこと。叶う筈もなかった平和。太陽の差し込むロウアータウン。誰もが成し遂げられなかったことを、銀次はいとも簡単にクリアしてみせたのだった。



 それこそ、奇跡の如く。



 ぱち。
 キーボードが乾いた音を立てた。モニタに、びっしりと並ぶ数式が逆さまにMAKUBEXの顔に映る。憂いと、悔しさと、怒りの混じった少年の顔は、いつもよりもずっと幼かった。




「…許さないよ、銀次さん…」
 いつか手が届きそうな、甘い夢も。
 大勢の仲間も。
 優しい銀次自身も。
 MAKUBEXが大好きだったものは、全て銀次なしでは有り得ないのに。
 彼は、銀次は。
「ここを出てくなんて…。ボクたちを置いてくなんて…」
 噛み締めた唇の間から漏れる言葉は、ひどく掠れて震えていた。




 初めて会った日に感じた、あの感情は何だったのか。
 流れ星を見つけた時に胸が高鳴るように、胸が大きく弾んだ。この人になら、一生ついて行きたいと思った。自分の存在の全てを捧げてもいいとさえ、思った。
 その気持ちは、今日この日まで髪の一筋たりとも揺らいだことはなかったのに。




 普段は年相応に見られることのない幼い頬を、涙が滑る。一筋、迷いなく流れた涙は、彼の率直な気持ちそのものだった。
「…許さない。許さない、許さない、絶対許さない…!」
 血が出るほどに握り締めた拳を、激情に任せて振り上げ、キーボードに叩きつける。逡巡など、一切しない。拳の下で、精密機器のキーボードがぱきんと鳴ったが、MAKUBEXは構いはしなかった。二度、三度と全力の拳を振り下ろす。
 四度目、とうとうキーボードは小さな火花を散らした。
 熱い電流がその指を灼き、MAKUBEXはようやく拳を振り上げるのを止めた。
「っ…ぅ」
 どんなに我慢しても、次から次へと溢れてくる涙が止まらない。





「銀次さん…っ」
 ぽたぽたっ、と暖かい涙が拳に落ちた。
 心の中では、狂おしいほどの愛情と憎悪が互いの尻尾を喰い争いながら、渦巻いている。
「絶対…、に、許さない…から…!」







 かの人がいない無限城の、なんと暗いことだろう。
 かの人のいないこの世の、なんと恐ろしいことだろう。












■色々おかしいところがあるのは流して下さい(汗)
 銀ちゃんが無限城を出て行くのを知ってても、皆は止められなかったんじゃないかなぁと思うんですよ。
花月は書き易くて好きです。

2005.4.17