蒼い春





 無限城ロウアータウンの最下層、特にゴミ処理施設の付近をわざわざ訪れる者はほとんどいない。
 そんな最下層の、ヘドロと汚物、大量のガラクタにまみれた汚い通路を、鼻歌を口ずさみながら進む者がいた。羽が生えているかのような軽やかな足取り。性別不詳の端正な顔には、百花繚乱と咲き誇る花にも負けない、華やかな笑顔が浮かんでいる。
 元VOLTS四天王一人、「掃き溜めに鶴」こと、絶世の美貌の持ち主の風鳥院花月である。
 普段から穏やかで、笑顔の多い人物ではあるが、今日の表情は一段と明るい。左手に提げたビニール袋と、右手の大きな紙袋を交互に揺らしながらスキップ混じりで進む。
 背後には、呻く人影を幾つも転がしていた。




 ピンポーン。
 古典的なチャイムの音が四角い部屋に響き渡った時、無限城ロウアータウン最下層、新生VOLTSのアジトには、珍しく幹部達が集合していた。
 中央のメインコンピュータの前には、少年王MAKUBEXが座って神業のような速度でキーボードを叩き、その左側では鮮血のジョーカーこと笑師春樹がコンピュータゲームに夢中になっている。MAKUBEXの右腕、筧朔羅はキッチンに使っている隣の部屋から、緑茶を淹れてちょうど戻ってきたところで、弟の筧十兵衛は壁のすぐ近くで飛針を磨いていた。
 四人の視線が、瞬時に険しくなった。
『やあ、MAKUBEX。頼まれてたもの、届けに来たよ』
 だが、天井のスピーカーからはよく聞き慣れた涼やかな声が届いた。四人は、ほっとしたように肩の力を抜く。
「いらっしゃい、花月クン。今開けるからちょっと待ってて」
 常にメインコンピュータの前から動かないMAKUBEXが、目にも留まらぬ速さでキーボードを操作した。
 無限城の治安の悪さは、天下一品。いくら花月の声と姿をしていても、それが本人でない可能性は十分にある。だから、扉の前に客を立たせて、一瞬のうちにありとあらゆるスキャンをかけるのだ。細胞レベルまで瞬時に読み取り、コンピュータが登録された人物と認めて初めて、扉が開く。
 用心に用心を重ねたシステムだが、実際MAKUBEXを狙う刺客は星の数ほど存在するのだから仕方ない。
「よし。いいよ、入って来て」
 ゴーグルを額に押し上げ、MAKUBEXはにっこり笑った。特定の人物にしか見せることの少ない、彼の本物の笑顔だ。
「頼まれモンー?外のモンなんか?」
 笑師が、画面から目を離した。またゲームオーバーしたらしい。
「そう。今度こっちに来ることがあったら持って来てって頼んでたんだ」
 無限城で手に入らないものは何もないが、ごくたまに外のものの方が必要な時もある。無限城では、純正品や質が極度に高いものは入手しにくいのだ。
 MAKUBEXが立ち上がって腰の埃を払うと、部屋の扉が開いた。絹糸のような長い髪が、優雅な弧を描いてさらりと揺れた。
「久し振り。元気だったかい?」
 縦横無尽に床を這い回るコードを跳ねるように飛び越え、花月は明るく言った。笑師と朔羅、そして十兵衛とそれぞれ短く挨拶を交わし、MAKUBEXにビニール袋を手渡す。
「はい。これでいいんだよね?」
 袋の中身を確認し、MAKUBEXは笑顔を上げた。
「うん。ありがと、花月クン」
「気にしないで。それはついでみたいなものだから」
 ころころと笑い、花月はくるりと身を翻した。




「はい、朔羅!」
 彼女は、笑師の前に湯飲みを置いた状態で、きょとんと明るい鳶色の瞳を瞬かせた。眼前に差し出された紙袋を、不思議そうに眺める。
「私に、ですか?」
「うん。開けてみて♪」
 意外と重い紙袋を受け取り、朔羅は中身をがさごそと取り出した。満面の笑顔の花月を正面に、興味津々のVOLTSの面々が朔羅を囲む。紙袋の中からは、二つのたとう紙の包みが現れた。中身の想像がついた朔羅は、はっと花月の笑顔を見つめた。
「まさか、花月様…」
「いいから」
 漆黒の涼やかな瞳で、花月はあくまでも明るく促す。おそるおそる包みを開くと、朔羅は微かな感嘆の声を上げた。
「わぁ…」


 和紙の下から、鮮やかな春が溢れ出た。


 流れるような正絹の振袖が、腕の中でふわりと広がる。友禅染だろうか。全体的に、淡い薄紅と空色と乳白色の地が広がり、右肩から袖、左裾にかけて桜の小花が散りばめられている。まるで、春のうららかな日に、満開の桜の木の下に立っているような光景を、そのまま写したような着物だった。もう一つのたとう紙には、華やかな着物とは対照的な、落ち着いた臙脂色の帯が入っていた。
 両腕に着物を広げ、朔羅は花月を見上げた。呟いた言葉は、柔らかい。
「素敵ですね…。着物なんて久し振り」
「だよね。僕もそう思って。流石に、僕はもう着ないから、朔羅にどうかなって」
「…宜しいのですか。これ、安くないでしょう?」
 身を縮め、朔羅が言った。染み、傷などないし、色も鮮やか。もし古着だとしても、余程大事に扱われていたのだろうと推測される。控えめな朔羅の発言に、花月は安心させるように微笑んだ。
「まぁ、今だけの話だけどね。質流れ品を安く手に入れたんだよ。だから、心配しないで。絶対朔羅に似合うと思うんだ」
 腕の中の着物を抱きしめ、朔羅は顔を綻ばせた。
「花月様…。ありがとうございます」
「やだなぁ、朔羅。"様"はやめて、って言ってるでしょ?」
「ふふ、そうでしたわね。すみません」
「じゃあ早速あててみない?」
 朔羅が着てる姿見てみたいな、と花月がにこにこ笑って言った。彼女は、ふわりと頷く。
 いつも柔らかな微笑を浮かべている朔羅だが、こんなに嬉しそうに笑っているのはほとんど見ない。緩んだ頬は薔薇色に染まり、明るい茶色の瞳が細くなる。そんな彼女につられたのか、花月の笑顔も珍しく幼い。彼にとっても、朔羅は実姉も同然なのだろう。
 そんな明るい一円から、一人、ふっと目を背けた者がいた。


「ひゃあ、ホンマ別嬪さんやなぁ、朔羅ハン」
 いつもの服の上からではあるが、花月に手伝ってもらって着物を羽織ってみる。帯も袷も緩やかに締めているので、何だかいつもよりずっと色っぽい。特に意識したことのなかったうなじの白さが、今日は何故だが眩しかった。
 感嘆の声を上げる笑師とは反対に、MAKUBEXはぐっと口の端を下げた。気を引き締めないと、ぽかんと口が開いてしまいそうだったからだ。
「当たり前だろう」
 目の見えない十兵衛が、拳を握って意気込んだ。あまり人に言われることは少ないが、意外と彼はシスコンな一面も持っていた。
「もうっ、およしなさい、十兵衛」
 生真面目すぎる弟の発言には、あまり素直に喜べない。朔羅は気恥ずかしそうに口を尖らせた。
「恥ずかしがることはないよ、朔羅。だって本当に美人だもの」
 自分の着付けに満足し、花月は細い腰に手をあてて胸を張った。こっちの弟も、存外にシスコンの気配がある。ふわ、と朔羅が体を半分回すと、長い袖が軽く翻る。と、同時に花のように甘い香りがあたりに漂った。




「何そっぽを向いてるんだい、MAKUBEX?」
 突然、花月がMAKUBEXの隣に膝をついた。
 花月が朔羅に着付けを始めたあたりから、MAKUBEXは興味を失ったようにコンピュータの画面に戻ってしまっていた。一心不乱にコンピュータに向かおうとしていたMAKUBEXは、少し不機嫌な顔で花月を見る。
「…ちゃんと見てるよ」
 返答は自然とぶっきらぼうになる。そもそも、ろくに集中も出来ない作業に没頭しようと足掻いていたのは、一体誰のせいだと思っているのだろうか。
 笑顔の下の、花月の表情を窺う。悪戯っぽく輝く漆黒の瞳が、すうっとすがめられた。まったく、この男は思いの外意地が悪い。MAKUBEXは、深々と溜め息をついた。



 …何も、花月クンに言われなくたって、自分の気持ちにくらい気付いてるよ。
 花月クンと話してる時の、彼女の顔がどんなに明るいか。どんなに嬉しそうか。
 その、彼女の笑顔の向こうの花月クンが、ボクは悔しくて羨ましくて堪らなくなる。そんなこと考えてたって意味がないってわかってるのに。
 彼女は、ボクを十兵衛みたいに手のかかる弟くらいにしか思ってないんだから。
 それに。
 …だってもし。
 もし本当に彼女が花月クンを好きなんだとしたら、ボクに勝ち目なんてあるわけないじゃないか。



 視線の端では、笑師と朔羅が楽しげに話している。一度、意識し出した感情は敏感で、そんな笑師にすら羨望を覚えた。
「ふふ、君は相変わらず、嘘が下手だ」
 MAKUBEXの横顔が、笑師と朔羅の会話に反応しているのをちらりと見て、花月がくすくすと笑った。
「敵に対してはどこまでも冷静になれるくせに、身内には弱い」
 それが、年の割にはこまっしゃくれた少年が仲間内で可愛がられている理由だったりするのだが、当の本人が知る訳もない。
「ほっといてよ」
「悪いけど、放っておくことは出来ないな。こんな面白いこと」
 花月を追っ払おうとMAKUBEXは手を払ったが、一方の花月はあくまで笑顔だった。膝の上に肘を付いた仕草が妙に艶めかしい。
「ねぇ、朔羅?」



 背を向けていた朔羅が、くるりと振り返る。亜麻色の髪が大きく広がり、笑顔の花が咲く。
「はい?」
「MAKUBEXがね、凄く綺麗だって。君のこと」
 ね、と言って、彼はMAKUBEXに視線を向けた。さあ、舞台は用意したよ、後は君次第。如実にそう物語る花月の顔が、この後の展開を期待して輝いていた。
 余計なことを!
 生き生きしている花月の顔を睨み、MAKUBEXはそわそわと頭の後ろを掻いた。面と向かって、何をどう言えばいいのだろう。
「えっとね、朔羅…」
 困り果てたMAKUBEXがそろりと顔を上げると、朔羅の鳶色の瞳と目が合った。




 咲き誇る花は、ほんのり色づいていた。さっきまでの笑顔に負けないくらい明るく、それ以上に零れんばかりの喜びを込めて。
「…ありがとう、MAKUBEX」
 にっこり。鳶色の瞳は、目いっぱいの想いを込めて微笑みを投げた。
 それに応えるように、MAKUBEXの天藍石の瞳も、優しく細くなる。
 そんなアイコンタクトに気付かなかった笑師が、ひょっこり朔羅の顔を覗き込んで能天気な声を上げる。
「なんや、朔羅ハン。顔赤いで?」
「えっ…、いえ別に…」
「いやいや、何ぞ嬉しいことでもあったんと違います?」
「だから、大したことでは…」
「ほんまでっかー? その割には、えろう幸せそうな顔してましたでー?」
「笑師っ!もうっ、いい加減になさい!」
 にやにやと尋ねる笑師に、朔羅は真っ赤になって必殺の右手を食らわせた。あの十兵衛をも張り倒す右平手打ちに、笑師はあっさり吹っ飛ばされた。
「そんなことありませんからっ!」
 笑師は背中から十兵衛にぶつかって、二人揃って床に転がる。
「あ、姉者?」
 まともに笑師のクッションになった十兵衛が、困惑した声を上げた。
「あ、ごめんなさい。つい手が…」
 朔羅は、謝りながら笑師を助け起こした。その下から、がさごそと十兵衛が身を起こす。このがさつな新生VOLTSで、何気に朔羅がメンバーの手綱を握っているのはこういう面があるからだったりする。





「…ほんとに。綺麗だと思うよ」
 やっと聞き取れるくらいの呟きを耳にして、軽口を叩き合う十兵衛と笑師を笑いながら眺めていた朔羅がゆっくり振り返った。
 鳶色の瞳に、銀髪の少年の姿が映る。照れくさそうに、それでも真っ直ぐ微笑みかけてくる少年。




「…ありがとう」
 顔にかかった亜麻色の髪をかき上げ、朔羅も顔を綻ばせた。








■本当にさりげなーく、花月→朔羅を狙ってみたりしました。
 中々面白いと思うんですが、同志さまに出会える確率は限りなく低そうですね(笑)