二人





 からりん、とホンキートンクの扉が鳴った。
 きりりと澄んだ朝の空気と一緒に騒々しい二人組が店内に転がり込んで来る。先頭を切って駆け、何時でも子供のようにはしゃぐ金髪の少年の一歩後ろを、煙草を咥えたウニ頭がぶらりと続く。ここ裏新宿、特にこの界隈では見慣れた、奪還屋の二人組だ。
 マスターとバイトは騒々しさにも慣れたもので、明るい笑顔で彼らを迎えた。
「よぉ、いらっしゃい。何にする?」
「ブルマン」
「オレ、アイスコーヒーね!」
 声を揃えて二人が叫ぶ。常連の二人が頼む、いつものコーヒーだ。
 我がもの顔で、カウンターの前にどっかと腰を下ろす。ゲットバッカーズの二人にとって、ここは自分達の仕事場でもある。
「ツケ払ってからな」
 そう言いながらもマスターの波児は、にかっと笑いながらコーヒーを淹れ始めた。ツケが払ってもらえないとわかっていながらも、それほど二人を邪険にしないのが波児の器の大きさだ。
 そんな三人のやり取りに、先客がついつい軽やかな笑い声を漏らした。
「相変わらずですね、お二人は」
「えへへー、久し振り、カヅっちゃん!」
「お久し振りです、銀次さん」
 ひまわりのような銀次の笑顔に、カウンターの端に座っていた花月はにこやかに返答する。正直、色々とみすぼらしい奪還屋の二人に比べ、朝から優雅にコーヒーを傾ける彼の姿はとても絵になる。銀次に向かって送った笑顔と共に、耳元の黒髪を束ねる鈴が、ちりっと鳴った。
「なんでテメェがいるんだよ、絃巻き」
 明らかに面白くないと宣言しているような蛮が、苛々とカウンターに肘をついた。邪眼よけのサングラス越しの蒼い瞳が、ぎらりと光った。
「おや。僕はお客としてここに座ってるんですよ?ねえ、マスター」
 明るい花月の声に、波児も深く頷く。
「ツケない客なら大歓迎だ」
 専用カップにコーヒーを注ぐと、蛮の前に置く。蛮は花月に舌打ちを投げつけると、熱々のコーヒーを口に運んだ。
「はい、銀ちゃん」
「ありがと、夏実ちゃん」
 底抜けに華やかな笑顔が評判のバイト、夏実がアイスコーヒーを運ぶ。コーヒーを淹れる腕はなかなか上がらないが、本人は一向に気にしていないようだ。
「カヅっちゃん、最近どう?オレ達さっぱりでさー」
「この馬鹿銀次!そんなことまで言うな!」
 緑のバンダナを巻いた頭を抱えてぼやく銀次を、蛮は頭ごなしに怒鳴った。しゅん、と肩を竦める銀次ごしに蛮を横目で見て、花月は細い指を口元に当て、くすりと笑みを零した。
「まぁ、銀次さんはともかく、君のその性格ではね」
「んだと、絃巻き!表、出ろや!」
「やれやれ。本当にアナタは野蛮ですねぇ…っ!」
 銀次を挟んで、蒼い蛇の瞳と切れ長の漆黒の瞳が火花を散らす。二人がマグカップを置く音が、ぴったり同時に響き渡る。
「蛮ちゃん、カヅっちゃん、落ち着いてよ〜」
 右と左を交互に宥め、銀次が情けない声を出す。花月のことも蛮のことも知り尽くしている銀次は、一生懸命場を取り繕おうと少ない脳みそをフル回転させる。
 鈴に手を伸ばす花月の腕をがしっと掴み、蛮には無邪気な笑顔を振りまいた。
「蛮ちゃん、オレが悪かったからさ〜。機嫌直して、ね?」
 本人はまったくの無自覚で、潤んだ視線を送っている。種々の殺し文句と、悩殺仕草。銀次にとっては、計算している筈もない、ごく当たり前の行動であるが。彼を取り巻く人々にとっては、おもしろいくらいに絶大な効果を及ぼしたりする。
 一瞬、条件反射で毒気を抜かれ、蛮は放っていた殺気を削がれることになった。
「ね、蛮ちゃん」
 天真爛漫の笑顔が、ぱあっと花咲く。これで無意識だというのもなかなか問題だ。
「う…っ。…わあったよ!命拾いしたな、絃巻き!」
 ふいっとそっぽを向いて、蛮がうそぶく。左腕を押し止めた銀次の手の温もりに、花月は微笑み、腕を下ろした。その笑顔の絶大な効果に、夏実は呑気に感心する。
「すごーい、銀ちゃん。さすが〜」
「本当に、銀次さんには敵いませんね」
 くすくすと笑い声を漏らし、髪に鈴を戻す。こればっかりは花月と同意見で、蛮も憮然と呟いた。
「まったくだ」
「だってオレ、蛮ちゃんとカヅっちゃんが喧嘩してるなんて嫌だよ」
「俺は別に構わねぇけどな。アイツはムカつくし」
「蛮ちゃあん、そんなこと言わないで」
「あーもう、わかってら。今はやらねぇよ」
 口は達者だが相棒には弱い蛮と、頭は弱いが相棒には強い銀次のやり取りは、いつ見てもおかしい。
 店長とバイトと共に声を上げて笑い、花月は冷めたコーヒーを一口含んだ。冷たいコーヒーの苦味が、戻れない過去の記憶を呼び覚ます。







 始まりと同じように唐突に静かになった戦場で、動くものはたった二つ。自分と相手。お互いだけ。
『ねぇ、カヅっちゃん』
 瓦礫の王座に腰を下ろし、無冠の王は呟いた。
『俺って、最低だね』
『…銀次さん?』
 王の小さな言葉に、花月はまろやかな弧を描く眉をひそめた。
『カヅっちゃんのこと、護るって言っておきながら、…そうやって手を汚させてる』
 少し高い位置から、銀次の琥珀色の瞳が花月の瞳を覗き込む。二人の周囲に折り重なるように倒れている者達の呻きが、ふいに大きく聞こえた。ちらりと周囲に目を回し、花月はゆっくりと頭を振った。幾人もの敵を葬ってきた鈴が、酷薄なくらいに涼やかに鳴る。
『いいえ。これは、僕の役目でもあり、望んだことでもあります。銀次さんがそう思う必要なんて、まったくありませんよ』
 にっこりと銀次を見つめ返し、花月が答えた。雷帝の隣でロウアータウンに生きていくと決めた以上、平和の為の戦いくらい恐れるまでもない。それに銀次の隣で夢が見られる生活は、戦いがあろうがなかろうが、彼にとっては極上のもの。花月の返事に、勿論迷いはなかった。
『でも、カヅっちゃん…』
 銀次の大きな瞳が、微かに震えた。決意が揺らぐように、今にも泣き出しそうに。
『俺、カヅっちゃんも士度もMAKUBEXも柾も、護りたいよ。それだけじゃなくって、VOLTSの皆もロウアータウンの皆も護りたい…!』
 ぎゅっ、と握り締めた手を額に当て、銀次は上手く言葉に纏まらない思いを、そのまま吐き出した。つい言葉を飲み込んだ花月の、引き結ばれた唇をぼんやりと眺め、銀次はさらに小さな声になった。
『…それなのに、俺は皆に血を流させてる。俺が皆を護らなきゃいけないのに。皆に、こんな気持ちを味わわせちゃいけないのに…!』
 震える声は、くすんだ空気に吸い込まれて散り散りになる。苦しんで歪む銀次の口元を見て、花月も胸の奥がちくりと痛むのを感じた。
『銀次さん…』
 返す言葉が見つからない。ただ、無意識のうちにその名を呼ぶ。



 銀次は、本当に優しい。力と力のぶつかり合いが、精神的、物理的に、どれだけ人間を傷つけるのかということもわかっている。
 だから、彼はいつも思っているのだ。手を汚すのなら、自分だけでいいのだと。
 四天王もVOLTSも、銀次にとっては護りたいものの一つ。その、両手から溢れるくらいの大切な者達を抱えて、銀次は途方に暮れている。
 何一つ零したくなくて。何一つ失いたくなくて。
 そんな彼を、どうして傲慢などと呼べるだろう。その優しさに、心惹かれたと言うのに。
『銀次さん…』
 伸ばしかけた腕が、だらりと垂れる。
 触れる資格などあるのだろうか。自分が、彼に。
 彼の葛藤を知りながら、望み続けてしまう自分に。
 だから、もう一度、名を呼んだ。愛し、求めてやまないその名を。自分の心を振り切るために。
『…帰りましょう?皆が、首を長くして待ってますよ』
 ふわ、と銀次の眼前に手の平を差し出す。虚空に向けられていた銀次の瞳に、色が戻った。琥珀の中に花月の繊細な手が浮かび上がる。
『カヅっちゃん…』
 体を起こし、呆然と呟く銀次に花月は笑い掛けた。
『銀次さんには、僕らがついてますから。忘れないで下さいね?』



 胸を刺した、この棘の痛みには気付かない振りをしよう。
 花月は、何度目かの思いを喉の奥に封印する。こんな風に銀次を引き止めれば、彼は益々傷ついていくと理解しているのに、自分の行動も止められない。ロウアータウンの人々の希望も、その背後に隠した己の望みも、全てを捨てきることは、きっと出来ないから。
 ごめんなさい、銀次さん。
 差し伸べた手をさらに突き出し、花月は銀次の左腕を掴んだ。雪が解けるように、銀次の顔の暗さが消える。暖かい手に導かれるまま、彼は瓦礫の王座を下りた。






「…どしたの、カヅっちゃん?」
 顔のすぐ前で響いた不意打ちの声に、はっと意識が現実に戻った。記憶の向こうの銀次と、目の前の銀次の表情が、咄嗟に繋がらない。雷帝の、重みに打ち震えた顔と、銀次の生き生きとした顔が、脳裏で交互に入れ換わる。
「あ、いえ。何でもありませんよ」
 慌てて手を振り、花月は表情を繕った。
「そう?少し顔色悪いよ」
 僅かにひそめられた眉の間に、花月への心配が見え隠れしている。
「何でもねぇって言ってんだから、いいじゃねぇか」
「だって何か病気だったりしたら大変だよ。ね、カヅっちゃん」
 一度言い出したら突っ走る銀次は、蛮の一言くらいでは止まらない。真剣な顔で覗き込んでくる銀次に、花月は自然と綻ぶ表情で穏やかに答えた。
「今朝まで仕事だったので、少し眠いだけですから。本当に何でもありませんよ」
「…そっか!なら良かった!」
 花月の言葉を信じ、銀次はぱあっと破顔一笑した。
 体調が悪いのは事実だ。正直に言って、微熱もあるに違いない。けれど、それも仕事の疲れから来ているもの。大したことはない。




 変わってないな。
 蛮とふざけ合う銀次の横顔を見つめて、しみじみと実感する。
 いつもはぼうっとしているくせに、妙に勘が鋭いところ。そうやって、すぐに人を信じるところ。笑った時の、周りの空気。
 銀次が日々神経を磨耗させ、傷ついていくのを成す術も無く見守っていたあの頃。それでも彼の傍にいて、ほんの少しでも彼を癒せたのは四天王だけだったと、花月は今でも確信を持って言える。
 あの時の銀次の隣に相応しかったのは、自分だ。自惚れと希望と半々にしても、そう思う。
 でも、今は違う。どんなに、認めたくないと脳が叫んでも、目は、耳は知ってしまっているから。銀次の隣に、一番相応しい者が誰なのか。
 本来の彼を、陽の元へ余すことなく引きずり出した男がいるということを。





「さて、僕はお先に失礼しますね」
 カウンターに手をついて立ち上がり、花月は大きく伸びをした。
「ちゃんと休みなよ、カヅっちゃん?」
 心配そうに見上げる銀次を安心させるように笑い返し、波児にお代を渡す。
 窓の外に目をやると、眩しく光る太陽が東の空の半ばで、きらきらと輝いていた。今日もいい一日になりそうだ。
 真鍮の鐘が下がった扉の向こうには、足早に通りを歩む人々の、いつもの日常がある。



「またね、カヅっちゃん!」
 ぶっすうと頬杖をつく蛮の奥で、銀次が元気に手を振った。昔と全然違う快活な顔の銀次だけれど、やっぱり彼が好きだと確信する。
 これで本当に良かった。
「ええ。今度は、無限城にでも遊びに行きましょう」
 扉を引くと、真鍮の鐘が晴れた空にからから鳴った。眩しい朝日が、寝不足の瞼に突き刺さる。
 あの頃願い続けていた、彼の心の平安は、今この時にある。




 踏み出した裏新宿の街は相変わらずごみごみしていたけれど、すっかり慣れた結構居心地の良い棲み家。
 凛と背筋の伸びた背に、マスターの間延びした声が投げ掛けられた。
「まいどありー」








■仲良し蛮銀にあてられる花月さん(笑)
 銀ちゃんにとって一番居心地の良い場所が、VOLTSじゃなかったのは悔しいけれど、「銀ちゃんが幸せなら、まぁいいか」って感じです。
 重要なのは、銀ちゃんが幸せかどうかだと、花月さんはわかっています、きっと。


 *2008.3.10 追記*
  今でも蛮銀は好物ですが、今となっては実はひっそりこっそり「風雅」への愛が最愛だったりします(笑)そう考えると、もっと花月に優しい話も書きたかったかも。
  花月×朔羅とか(笑)祭蔵も書き甲斐ありそうな人ですし。いつか機会があったらまた書きたいです。